マタイによる福音書第25章31節-46節、2017年1月22日、白井徳満先生説教梗概
説教「天国の希望と神の裁き」(マタイ25:31~46)
世には終わりがあるというのが、聖書の、特に新約聖書の教えであります。日常的にも、世の終わりだという考え方はあります。疫病が蔓延して、大勢の人が死んでいく、あるいは、核兵器で人類が滅びる危険性の中で、世界が終わりになるのではないかというとき、世の終わりになると私どもは考えています。
しかし、聖書が言う世の終わりとは、そういう考え方とは異なります。世の終わりのことが、今日の聖書の個所、マタイ福音書第25章31節から46節には書かれています。他の個所にも、いくつも同じ世の終わりのことが同じように記されています。
たとえば、終わりのときに、毒麦とそうでない麦とがよりわけられるという譬えがありますし、また、天国、神の国が来るときとは、海に投げ下ろされた綱が引き上げられ、良い魚とそうではない魚が分けられ、良くない魚は外に投げ捨てられるというのです。すなわち、終わりのときに、裁きがあるというのが、聖書に書かれていることなのです。単なる地球が滅びるとか、人類の最後ということではない。
しかし、これは、何も恐ろしいことではありません。それは、信仰によって正しく生きる人にとっては、喜びの時でもあるのです。
今日の聖書の個所にはそのことが、書かれている。終わりのときに、人の子が天使たちを従えて、やって来て、王座につく。人の子というのは、イエスのことです。イエス・キリストが、メシアとして、王として終わりのときに、私どもを裁くためにお出でになる。2000年前に、貧しいヨセフとマリアの子としてお生まれになり、3年間ほど、神の国を説いて、十字架の死を遂げたイエスが、終わりの時には、メシアとして裁くために、お出でになって栄光の座にお着きになる。
そして、羊と山羊のように、人類をお分けになる。羊は良いものとされ、山羊は悪いものとされています。そして、右のほうの、羊のほうの人々に、メシアである王は、言います。あなた方は、私が飢えていたとき、食べさせ、裸だったときに着せてくれ、牢に入れられていたときに見舞ってくれ、よそ者だったときに、集まってくれたので、世の初めから、あなた方のために約束されている祝福の中に入りなさい。
その時に、その者たちは、尋ねます。主よ、あなたがはだかなのを見ていつ、着せ、飢えていたのを見ていつ食べさせ、牢に入れられていたのをみていつ見舞い、よそ者だったとき、病気だったときにいつあなたのもとに集まったでしょうかと。
その時、王はこう答えます。あなた方のうちの最も小さい兄弟のうちの一人にしたのは、よく言っておくが、私にしたのであると。
次に、左の山羊のほうに分けられた人々に、王であるキリストは言われます。悪い、呪われたしもべたちよ、お前たちは、悪魔とその手下に用意されている火の中へと進むが良い。なぜなら、お前たちは、私が飢えていたとき、食べさせず、裸でいたとき、牢にいたとき、病気だったとき、よそ者だったときに世話してくれなかった
その時、左の者たちも言います、あなたが、いつ、飢えていたとき、病気のとき、牢におられたとき、病気だったとき、裸だったとき、よそ者だったときにお助けしなかったでしょうか。すると、王は答えます、よく言っておくが、これらのいと小さき兄弟のうちの一人にしなかったのは、私にしてくれなかったのであると。
ルーテルは、良い行いというのは、それだと自分で気づかずにやるおこないであると言います。
しかし、思いますに、自分が、この羊のほうの良い行いをした側に入ると言い得る人がいるでしょうか。自分が毒麦ではなく、良い麦のほうであり、悪い魚のほうではなく、良い魚に入ると言い切れる人がいるでしょうか。私どもはみんな、自分が不完全な者であることを痛感させられております。自分が滅びのほうに分けられても、仕方がないと感じています。
しかし、神の愛は、そのような弱い者、小さい者の滅びることを決して欲しないのです。2アサリオンで売られている雀の一羽でも、私の許しなしには、地に落ちないと、イエスの言葉が記されています。しかし、この文の正しい原文は、私の知らないところで、雀の一羽でも地に落ちることはないというのが正しいと、特に最近では研究が進んで、一致して認められています。
どんな人が死ぬ場合でも、イエス・キリストの見ておられないところで死ぬことはないというのであります。聖書には、終わりの時の裁きの言葉が、何個所にも、旧約聖書から新約聖書まで沢山出てきますが、それは同時に、希望の言葉であります。
主イエスは、貧しい家庭に育ち、小さい者たち、弱い者たちを助け、神の国、天国の教えを説き、最後は、最も苛酷な十字架の死を遂げて、天に帰られました。それは、どのような滅びるに価する者をも、―人間は皆、そういう者ですが、―その者を滅びに渡さず、希望と祝福のうちに生きることができるようにというのが、神のご意志であり、そのために天国の希望と神の裁きが聖書に約束されているのであります。終わりの時の裁きとは、決して、私どもにとって恐ろしいものではなく希望と喜びをもって、待ち望むべきものなのであります。
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