コヘレトの言葉第9章1節~18節、2016・10・13、英語で聖書を読む会
コヘレトの言葉第9章1節-18節
わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち
善人、賢人、そして彼らの働きは
神の手の中にある。
愛も、憎しみも、人間は知らない。
人間の前にあるすべてのことは何事も同じで
同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも
清い人にも不浄な人にも
いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。
良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり
誓いを立てる人に起こることが
誓いを恐れる人にも起こる。
太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
命あるもののうちに数えられてさえいれば
まだ安心だ。
犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
生きているものは、少なくとも知っている
自分はやがて死ぬということを。
しかし、死者はもう何ひとつ知らない。
彼らはもう報いを受けることもなく
彼らの名は忘れられる。
その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ
太陽の下に起こることのどれひとつにも
もう何のかかわりもない。
さあ、喜んであなたのパンを食べ
気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。
あなたの業を神は受け入れていてくださる。
どのようなときも純白の衣を着て
頭には香油を絶やすな。
太陽の下、与えられた空しい人生の日々
愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
それが、太陽の下で労苦するあなたへの
人生と労苦の報いなのだ。
何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。
いつかは行かなければならないあの陰府には
仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。
太陽の下、再びわたしは見た。
足の速い者が競争に、強い者が戦いに
必ずしも勝つとは言えない。
知恵があるといってパンにありつくのでも
聡明だからといって富を得るのでも
知識があるといって好意をもたれるのでもない。
時と機会はだれにも臨むが
人間がその時を知らないだけだ。
魚が運悪く網にかかったり
鳥が罠にかかったりするように
人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。
わたしはまた太陽の下に、知恵について次のような実例を見て、強い印象を受けた。
ある小さな町に僅かの住民がいた。そこへ強大な王が攻めて来て包囲し、大きな攻城堡
塁を築いた。その町に一人の貧しい賢人がいて、知恵によって町を救った。しかし、貧しいこの人のことは、だれの口にものぼらなかった。それで、わたしは言った。
知恵は力にまさるというが
この貧しい人の知恵は侮られ
その言葉は聞かれない。
支配者が愚か者の中で叫ぶよりは
賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。
知恵は武器にまさる。
一度の過ちは多くの善をそこなう。
メッセージ「次に何が起こるかは分からない中で」(コヘレト9:1-18)
私どもは、コヘレトが言うように、賢者が、あるいは正しい者が必ず勝利するわけではない、ある意味で不条理な人生を生かされている。あまりにも正し過ぎないようにと、あった以前のコヘレトの言葉が想起される。
明日は、何が起こるか分からない、不確実性の中を、一人一人は歩んでいるのである。思わぬ言葉によって傷つけられることが、いつ投げかけられるとも限らない。
そのような時には、コヘレトが、今日語ってくれているような言葉さえも、容易には頭に入らない経験すら、私どもはするものである。
しかし、そのような苦しいときでも、改めて、今日のコヘレトの言葉に近づいてみたい。
正しい者にも、悪人にも、愚かな者にも、賢者にも死が訪れる。死者は自分自身についてもはや何も知らない。シェオール、旧約聖書の時代の人々が、死んだらゆくと信じた死者の国では、もはや、仕事も企てもなく、神をほめたたえることもできなくなると考えられており、コヘレトもそれを受け入れて正視している。
それゆえ、死んだ獅子よりは、生きている犬のほうがまさっているという。なぜなら、生きてさえいるならば、私どもは、まだ望みがあるからだというのである。
そうだ、私どもは、健康を与えられて、心身ともに健やかにされて、日々与えられる仕事を精一杯やれるならば、この空しい人生にあっても、神からの労苦の報いを受け取って、それでよしとすべきなのではないか。
そして、働いて得た収入で、飲み食いし、妻と共に楽しむがいいのだ。そのためにも、コヘレトの言葉に聞き、この世の生がきわめて限られたものであることを知り、明日、否、一日のうちにも、次に何が起こるか分からない、危険で不条理なことの起こる生活の中で、分をわきまえて、過度に正しすぎず、自分が賢いと、あるいは人より、まさっており、聖であるとうぬぼれることなく、穏やかな、平静な心で人々と接したいものである。
アーメン。
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