コヘレトの言葉第8章1節~17節、2016・10・6、英語で聖書を読む会
コヘレトの言葉第8章1節-17節
「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」
賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。
それは、わたしだ。すなわち、王の言葉を守れ、神に対する誓いと同様に。気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから。王の言った言葉が支配する。だれも彼に指図することはできない。命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか。
人は霊を支配できない。
霊を押しとどめることはできない。
死の日を支配することもできない。
戦争を免れる者もない。
悪は悪を行う者を逃れさせはしない。
わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ。
だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。
悪事に対する条例が速やかに実施されないので
人は大胆に悪事をはたらく。
罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が
なお、長生きしている。
にもかかわらず、わたしには分かっている。
神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり
悪人は神を畏れないから、長生きできず
影のようなもので、決して幸福にはなれない。
この地上には空しいことが起こる。
善人でありながら
悪人の業の報いを受ける者があり
悪人でありながら
善人の業の報いを受ける者がある。
これまた空しいと、わたしは言う。
それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
太陽の下、人間にとって
飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
それは、太陽の下、神が彼に与える人生の
日々の労苦に添えられたものなのだ。
わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。
メッセージ「人に与えられた命のスパンを精一杯生きる」(コヘレト8:1~17)
コヘレトの言葉は、「空の空なるかな」といった言葉で、ともするとニヒリズム(虚無主義)として受け取られやすい。しかし、彼は、その時代の中で、できうる限りの極限の生き方をしたし、それを私どもに奨めている人ではないか。
賢者はどのように生きているのか、知恵はどこまで、私どもを導いてくれるのかと問い、彼は、王の命令に従えと言い、その主権にそむくことは愚かであると言って、その時代の中で伝えられている、生き抜く知恵にならうように教えもしている。
しかし、正しい人が、悪人にふさわしい報いを受けることがあり、逆の場合もあることを見て、それはまた、空しく、空虚であり、無駄な、つまらないことだと言う。
そして、結局、どんな賢者も、知恵者も、続いて、何が自分に訪れるかは、だれも知ることはできず、すべてを知っておられ、決定しておられるのは、神お一人であると言う。コヘレトは、ここでも、だれにも平等に訪れる死を凝視しているのである。
そして、再び、私どもに最も良いことは、自分の労苦に従って、飲み食いし、楽しむことであり、この短い人生のスパンを、そういった意味で精一杯生きることであると語り、今も、そのことを私どもに、2000、数百年の歴史を超えて、奨め、慰め、励ましているように思われる。
アーメン。
0 件のコメント:
コメントを投稿