ローマの信徒への手紙第5章1節-5節、2016・09・30、聖研・祈祷会
ローマ5:1-5
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
メッセージ「まことの希望」(ローマ5:1-5)
これまで、信仰によって、人は義とされることを、使徒パウロは、いろいろな角度から証言してきたのであるが、今日のローマ書台章からは、その神によって義とされた人間がどのように確かな希望を与えられているか、そして、その義とされた人間の新しい生について説き始める。
それゆえに、信仰によって義とされた私たちは、主イエス・キリストを通して、恵みによって、神に向かって平和を持っているとパウロは、新たな展開の文章を書き始める。
神と平和な関係を持ちましょうと、新たな生き方を求めるというのではなく、既に神との和解ができあがっているというのである。
私たちの功績によって、自分たちの側から神との平和が与えられるというのではなく、神の側から、一人子を、罪なきお方であるにもかかわらず、十字架の死に渡し、さらに死人の中から起き上がらせることによって、義をもたらし、私たちの罪を怒り、争うというのではなくて、一方的なご好意によって、私どもとの関係を修復なさったのである。
そして、私どもは、神の栄光の希望の上に誇るのであるという。神の栄光を輝かすことができたならば、私どもの人生はどんなにか有意義なものになることだろうか。それが、私どもの罪のためにできなくなっていたし、神の怒りを招くものとなっていた。それが、み子の十字架とご復活の出来事を通して、神の栄光の希望を誇り、喜ぶものになっていると、パウロは宣言する。
そして、私たちは、苦難をも誇るというのである。神を信じる私たちも、苦しみに出会う時、神に問い、信じていない者であれば、むしろ神を呪いさえもするのが通常である。あるいは、艱難が続く時には、神を思う余裕もないのが私どもの偽らざる現実である。
ところが、パウロは、聖書を通して、神の救いを知らされた私どもは、苦しみをも誇ることができる。苦しみは、神が私どもを訓練するためのもので、やがて、忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出すという。練達という言葉は、試練とか、テスト、あるいは証拠といった意味である。マルティン・ルターが悪魔や試練との熾烈な戦いの中で、揺るがない信仰による義を見出し、あの500年前の改革の事業を、聖書との格闘を通して、成就していったことを、人は想起することができよう。
さらに、パウロは、そのような練達は、希望を生み出し、その希望は、決して失望させない、恥をかかせない、欺くことのないものであるという。2000年前に成就した神の救いの出来事は、人が思い描く妄想でもなければ、絵空事でもない、確実な出来事であると、主イエスの十字架の死からわずか50年ほどしか経っていないパウロが保障して言い切っているのは驚くべきことである。
そして、最後に、なぜなら、神の愛が、私たちの心の中に、聖霊を通して今も降り注いでいるからであると言う。
私どもは、日常の労苦と煩悶、不安や疑い、一日一日を生きていくことで精一杯で、神の愛が、私どもの心に今もなお豊かに降り注がれていることをついつい忘れがちである。というよりも、パウロのこの言葉を聞かなければ、そんなことがあるのだろうかと訝しがるほどの者ではなかろうか。
しかし、パウロは、聖霊の力を通して、今もなお、確実に、神の、私たちへの愛が、私たちの神への愛ではなく、一方的に、私どもの心の中に降り注がれていることを宣言しているのである。
そのことを、絶えず自覚するためにも、私どもはあたう限り礼拝につながり、み言葉の説き明かしをに耳を傾け、洗礼と聖餐を絶えず凝視し、週日もみ言葉の学びと祈りに集い、聖書日課やたとえば、C・ブルームハルトの「ゆうべの祈り」(加藤常昭訳、日本キリスト教団出版局、2200円+税)を夫婦で用いたりして、神の愛を日ごとに確認する生活が求められるであろう。アーメン。
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