2016年10月4日火曜日

「ふつつかなしもべとして生きる」(ルカ17:1-10)

ルカによる福音書第171-10節、2016102日(日)、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)、ハバクク書第21-4節、テモテへの手紙二第13-14節、讃美唱95(詩編第951-9節)

 ルカによる福音書第171節~10
 
 イエスは弟子たちに言われた。「つまづきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまづかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ。』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


説教「ふつつかなしもべとして生きる」(ルカ171-10

 今日の第1朗読、旧約聖書では、ハバクク書から、待っておれ、私が言ったことは必ず実現する、遅れることはない。そして、正しい人は、信仰によって生きるとの預言が与えられています。また、第2朗読では、第2テモテ書から、使徒パウロが、獄中から、テモテに、その祖母以来、受け継がれた信仰を持ち続け、それから、逸れることのないように、絶えず正しい信仰を見つめ、私から聞いた福音を人々に説き続けるように励ましています。
 まだ、今の礼拝では読まれていませんが、来年の改革500年から用いられようとしている新式文で読まれることになる讃美唱としては、今日は詩編95編からの賛美の詩編が与えられています。すべては、主なる神がお造りになられたもの、私たちもそうであって、主は私どもを養う羊飼いであられると主をほめたたえる賛歌が、選ばれています。
 そして、今日の福音、ルカによる福音書第171節から10節が、今朝与えられております。エルサレムでの十字架の死を目指しての旅の一つの大きな詰めを迎える段落の終わりの記事となっております。
 さて、ヨーロッパでは、墓石には、しばしば聖句が刻まれています。日本の教会の墓石には、「われは、復活であり、命である」といった聖句が多いですが、ヨーロッパでは、某「主にあって、ここに眠る」といった墓碑銘が多いそうです。ところが、ある有名なスウェーデンの牧師で、学者としても大きな働きをした人は、墓碑銘に「ふつつかなしもべ、ここに眠る」と自分の生涯を振り返って、今日の主のなさった譬えから、記しているとのことです。
 この呼び方は、口語訳聖書で使われているものですが、このもとの言葉は、訳すのが非常に難しい言葉です。価値のないしもべですというのも、どうもその真意を十分に表せませんし、別の記事で訳されているところでは、役に立たないしもべとなっていますが、今日の個所でのしもべは、朝から晩まで、十分に働きを終えて帰ってきているのですから、なすべきことはみな果たしている、忠実なしもべなのです。
 しかし、そのスウェーデンの牧師は、自分の働きは、今日の福音の記事に出て来るしもべとして、「私はふつつかな僕にすぎません。私は、命じられたこと、恩義があることをやったにすぎません」と自分の生涯をその一言で要約して記しているのです。私どもも、自分の墓碑銘に、このように書ける生涯を、送れたら、どんなに幸いなことでしょうか。
 今日の福音は、主イエスが色々な場所で語った語録のようなものを、ルカがここに羅列して書いているとも思われるような、一読すると、一つのテーマのもとに記されたとは思えないみ言葉が記されています。しかし、あえてここに、ルカが構成しているのですから、つながりのあるみ言葉として読むことは許されるし、むしろ有用、必要なことではないでしょうか。
 まず、主イエスは、弟子たちに向けて、躓きは、やって来ないようにすることは、不可能であるが、それを来たらせるその者は災いである、その者は、首に石臼をつながれて、海に投げつけられた方が益であるとまで言われます。主イエスとその約束を信じている小さな信者を、それから離れさせる誘惑は、避けられないが、それをもたらすことが、ないようにあなた方は、くれぐれも注意しなさいと言われるのであります。
 続いて、罪に対して、どのように、教会の私どもは対応すればよいのか。主は、あなたに対して、兄弟が罪を犯したら、まずはそれを叱責し、ただしなさいと言われます。これは、難しいことです。感情的に叱り飛ばすということではなくて、やさしく兄弟を正しい道に引き戻すようにというのです。
 レビ記第1917節にも、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば、彼の罪を負うことはない」とあるとおりであります。
 次に、あなたの兄弟があなたに罪を犯し、一日に7度そうしても、7度、心から翻ってあなたのところに、改めますといって来るなら、あなたは、彼を赦しなさいと言われます。どこまでも、自分に罪を犯す者を、はたしてどこまで、私どもは赦し続けることができるでしょうか。どこまで、私どもは、日ごとに、十分の十字架を負って主イエスについていくことが可能なのでしょうか。
 これらの厳しい主の言葉を聞いた弟子たちは、自分たちはもう限界に来ていると落胆していたのではないでしょうか。
 そこで、使徒たちは、私たちに信仰を増させてくださいと、訴えるしかなかったのではないでしょうか。そのとき、主は言われます。あなた方に、からしの木のあの種粒ほどの信仰があれが、桑の木に、あるいは、もっと大きないちじく桑の木に、根を引き抜かれて、海に植えつけられよといえば、その木はあなた方に聞き従うだろうと。
 信仰とは、私たちの力で得るものではなく、ルターによれば、私たちのうちにおける神の働きであります。また、カール・バルトという神学者が、ローマ書第117節を、神の義は、神の真実から、人間のそれへの信頼を通して、実現されると訳したとおりであります。そして、その信仰があれば、それにふさわしい忠実な業をもたらし、信仰がなければ、疑いと恐れをもたらすのです。
 そして、主人と僕のたとえをお語りになりました。聞いている者たちに十分分かる事柄で、信仰をもって生きる者はどのような者なのかを説いて聞かせられるのであります。
 しもべは、主人に買い取られた者でありました。ですから、その家で、さまざまな働きをするしもべは、家に戻って、まずはその主人の食事の準備をし、給仕も済ませてから、自分の飲み食いにようやく落ち着くことができるのです。その主人から命じられたことをすべて果たしても、主人に報償を求めることはできません。

 私どもも、主イエスによって、罪から買い取られ、贖われた主イエスのしもべ、あるいは、主の奴隷と言ってもいいのです。ですから、私どもは、今日の、主の命ぜられた厳しいみ言葉に生き、そして、果たすべきことを、果たし終えたとしても、自分の名誉を求めることはできず、「私はふつつかなしもべです。主イエスに恩義のあることを果たしただけです」と言うことしかできないのであります。この主のみ言葉、約束をいただき、また、主の聖餐に与って、この1週間の生活の荒波の中へと雄々しく出て行きましょう。アーメン。

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