2026年8月23日日曜日

「キリストの教会」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2026年8月23日)(緑)

イザヤ書 51:1~6 (旧1146)   ローマ 12:1~8 (新291) 

マタイによる福音書16:13~20(新31)


 みなさんは「あなたは何者ですか?」と尋ねられたことがあるでしょうか。本日の福音書には、イエス様が弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったと書かれています。


 まずここには、私たちにあまり馴染みのない「人の子」という表現が出てきます。旧約聖書の詩篇では「朽ちゆく、弱い人間」を意味する言葉として使われましたが、同じ旧約聖書のダニエル書では「神から絶対的な支配権を授かった存在」と記されます。


 一方、新約聖書の福音書ではイエスが自分のことを語るときに好んで使われました。それはイエス様が神様でありながら、私たちと同じ痛みや弱さを持つ「本当の人間」なのだ、ということを表す言葉です。


 同じ「人の子」という言葉でもかなり解釈の幅がありますので、混乱しないように丁寧に見てまいりましょう。


 本日イエス様が尋ねられた場所、フィリポ・カイザリヤはガリラヤ湖よりさらに北、ヘロデ大王の息子のフィリポが町を拡大し、フィリポ・カイサリアと名づけます。ローマ皇帝・つまりカエサルと領主フィリポの名前をくっつけて街の名前にしたのです。いわば、当時のイスラエルで絶対的な権力を負っている人間の名前をつなげたわけです。


 ですからこの町で「人の子のことを何者だと言っているか」と問われた時、ダニエル書の解釈を適応するならこの街で絶対的な権力を持っているのは誰か、という問いとなり、答えは「皇帝」です。しかし、イエス様の前でそれは言えません。ですから、取り繕うかのように、ヘロデによって殺されたバプテスマのヨハネを言ってみたり、イスラエルの英雄的預言者エリヤを持ち出して見たりしたのでしょう。


 「世の中は間違っている、けれども自分達ではどうにもならない」と、イエス様から怒られないように言ってみた、というような発言でもあります。そして、自分の意見ではなく、「誰かがそう言っています」と無責任な発言をしました。


 ろくでもない支配者に振り回され続け、私の人生何だったのかと嘆いて一生を終える。神様は、つまりイエス様は、この地の誰一人そのような生涯を送って欲しいとは思っておられません。


 神様を信じ、感謝を持って神様の導きや促しに従って、神様のお手伝いをしていく人生になって欲しいと願っておられます。そのために、本当にこの世界の支配しておられるのは神であることを伝えようとなさったのです。


 だからこそ「誰かがそう言っています」的なあやふやな意見ではなく、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と切り出したのです。おそらく、ここで弟子達の長い沈黙があったと思います。


 そんな沈黙を破ったのはシモン・ペトロ、つまりイエス様の一番弟子であるペトロでした。彼は「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。


 「メシア」とは「救い主」という意味です。メシアは私に人生を教えてくださり、共に生きるとはどういうことかを分からせてくださり、私の人生が権力者に振り回されないよう、手を差し伸べてくださる方。それがあなただ、と告白したのです。


 目の前にいるあなたこそ、世の救い主であると同時に、私の救い主であること、伝説や過去の英雄ではない、生きている神様です、と面と向かって伝えたのです。


 その心を聞いたイエス様は、さぞ喜ばれたことでしょう。その喜びが「あなたは幸いだ」という言葉に表れています。ペトロは元々シモン・バルヨナという名前でした。しかしこの時イエス様から「ペトロ」「岩」という名前を与えられたのです。


 イエス様はさらに続けられます。「私はこの岩の上に教会を建てる」これは「わたしはあなたの言葉の故に、わたしの教会をあなたの心意気の上に建て、不動のものとする」。これくらいの勢いのある言葉なのです。


 昔から、「教会は建物ではない」とは言われています。しかし多くの方は、ぼんやりとしか把握していません。それをなんとか取り繕おうと、「信仰」のあるところ、と言ったりしますが、実際には、自分が気が向いた時に聖書を読んだりお祈りをしたりしに行く場所の一つくらいに考えているのです。


 信仰は自由だという言葉にひっぱられて、行くも行かないも自分の自由と捉えているかも知れません。けれども、教会を教会にするには心意気が必要です。損も得もない、私は神様のためにこうしたいのだという思いから始まり、その思いが、イエス様の思いと共鳴したところに、キリストの教会が、実現すると、イエス様は言われたのです。


 私たちは、イエス様を神様だと知り、信仰告白して洗礼を受けました。その時に与えられた、救い主を信じてついていこうという心意気が、キリストの教会を教会として打ち立てるものなのです。私たち弟子たちの活発なやり取りが、命を与えるのです。それが「生きる教会」なのです。


 「生きる教会」とは、そして生きるとは、うれしいことや楽しいことばかりではありません。つらいことや苦しいこと、悲しいこと、失望して打ちのめされることもあります。そうしたことを共に乗り越えて、生きてて良かったと、共に思える場所のことです。


 どんな時も互いに見栄を張ったり取り繕ったりせず、共に歩みだす心がある。「キリストの教会」は、そうした心をもった集まりなのです。そして、私たちもその一人一人なのです。


 今は、キリストのそうした心を無駄だと言わんばかりに、生成されたコンピューターによって、人間の膨大な情報の塊から、人生の正解を導き出したり、困難を乗り切ろうとする人が増えているようです。


 そして、その答えをまるで神の声でもあるかのように絶対なものと受け止めて、自殺をする人や人殺しをする人も出るようになったとも言われています。


 聖書に記されたイエス様の言葉は、生成AIの答えのように分かりやすくはないでしょう。それでもこの2000年にわたって、人間を慰め励まし、良い行いに導いてくださる御言葉です。理解することが難しいからこそ教会という、与えられた場所で共に学び、正しく理解し、受け止めるのです。そしてストンと腑に落ちた時、神様のお力が何倍にもなって一人一人に流れ込んできます。


 私たちは、この社会にとって何者でもない、小さい者の集まりに過ぎないかも知れませんが、「キリストの教会」に集うようにと、神様によって召されていることを忘れてはならないのです。



Yahoo!マップの航空写真が更新されていました
ルーテル幼稚園の新しい屋根は紺色
その左斜め下の緑色の屋根が礼拝堂です
園庭が広くなったのがよくわかります

0 件のコメント:

コメントを投稿