四旬節第6主日礼拝(2026年3月29日)(紫)【枝の主日礼拝】
イザヤ書50章4-9a(旧1145)
フィリピの信徒への手紙2章5―11節(新363)
マタイによる福音書 21章1―11節(新39)
さて、明日から教会のこよみでは受難週と呼ばれる一週間を過ごします。この1週間は主イエスが十字架に着くまで、どのように過ごされたかを追体験していきます。一番大きな事としては、木曜日の夜に教会に集まり、イエス様が弟子たちの足を洗ったようにお互いに支え合うことを確認し、最後の晩餐の出来事を振り返ります。翌日、金曜日には十字架に掛けられた午後3時に集まってイエス様の苦しみを覚え、自分の罪深さを振り返りつつ3日目の復活に備えるのです。
教会にもよりますが、平日に集まることが難しい、という理由もあってこうした礼拝はやらなくなったところが多いようです。キリスト教の華やかな典礼、クリスマスやイースターは、楽しく和気あいあいと過ごそうと演出を考える教会員も、イエス様を苦しめた、人間の罪の恐ろしさ、ひいては自分の罪深さに関しては、とりあえずスルー、という方が増えてしまったようにも思います。
まあそういった批判的なことはちょっとわきへおきまして、本日は受難週の幕開け、棕櫚の主日と呼ばれる日曜日です。イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城されたことが新約聖書の四つの福音書すべてに記されている、重要な場面です。
入城と言うのは、首都エルサレムの街が城壁に囲まれているからです。織田信長などが出てくる時代劇で京都に登ることを「上洛」と言いますが、イエス様が堅固な城壁に囲まれた街に入っていかれるお姿は、何かそれを思い起こさせる力強さです。
民衆はそのようなイエス様を見て、喜び、興奮し、棕櫚の枝を振って「ホサナ、ホサナ」と迎えいれ、自分達の上着をカーペットのように道に敷き詰めました。
彼らはイエス様にそれぞれに自分の願いを重ね合わせ、この方なら豊かな暮らしを取り戻してくれる、とか日頃の不満の解消を叶えてくれる、などと期待したのです
ただ、人々は目の前でイエス様がロバに乗っておられることの意味をどれほど深くとらえていたのでしょうか。
旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王が来る。彼は正しく、勝利を得る者、へりくだって、ろばに乗ってくる。雌ろばの子、ろばの子に乗ってくる。」という一節があります。ユダヤの人々なら、当然思い浮かぶ一節です。
本来ならば、人々は威厳のある軍馬ではなく、小さくて不格好な「ろば」に乗って現れた、ちょっと道化のようなイエス様のお姿を冷静に、かつ尊敬を持って捉え、理解するべきでした。イエス様は武力による支配など、全く望んでおられませんでした。それどころか、神の愛を持って人々を治めようとなさるので、軍馬ではなくロバに乗られたのだ、ということをどれほどの人々が理解したでしょうか。
イエス様ご自身は、この人々が勝手にご自分に期待し、勝手に期待を裏切られたと怒り出すであろうことをご存知でした。数日後には手のひらを返して「十字架にかけろ、十字架にかけろ」と叫ぶことを知っておられたのです。もちろん正確には同じ人々かどうかはわかりません。しかし、人の心があっという間に変わってしまう醜さと、それでも前へ前へと進み続けたイエス様の豊かな愛がここで対比されているのです。
私たちはこの聖書箇所を読むたびに、ユダヤの人々の心変わりに呆れますが、実は自分自身の心もまた変わりやすいことを知っています。高く評価していたはずの人を一瞬で嫌いになったり、些細なことで尊敬から軽蔑に変わってしまったり。
そしてコロコロと心や態度を変える自分の不誠実さよりも、こうなったのは向こうの責任だ、と開き直ってみたり、期待と裏切りの中で、もがいて生きているのです。
そんな私たちの移ろいやすい心や見栄や欲望、そして自分勝手な期待や我儘という、神さまから目をそらさせるその罪の報いを、ご自分が十字架で引き受けるために、イエス様はあえてロバに乗られたのです。
私たちは今日も「ホサナ、ホサナ私を救ってください」と叫びをあげます。「今、この瞬間救ってください」という叫び、「なんでもいいから助けてください」という悲鳴。それを突き詰めると本当は、「欲しいものをください」という駄々っ子に似た、欲望と見栄に縛られた自分自身に気づかされるかも知れません。
イエス様の思いを理解できないまま、助けを求めて泣き喚く私たち。本当の助けの意味すら知らない私たち。それは神様の目から見れば、救うに値しない、手を差し伸べる価値のない、愚かな集団に見えたかもしれません。それでもイエス様は「この空虚で、すぐに飽きるものに心を奪われてしまう、情けない私を、どうか助けてください」という魂のSOSを拾い上げ、哀れみ、愛して、手を差し伸べてくださるのです。
新しくリノベーションのなった会堂は、幼稚園の遊戯室としての役割から解放されましたので、受難週の礼拝、聖月曜日から聖金曜日まで礼拝を守る喜びが与えられています。けれどもそこまでイエス様に向かって心を注ぎ出すが礼拝がなかなかできないのは、何をイエス様に償って頂くものか、何から救っていただきたいと思っているのか、何を差し出すかが分からないまま、ここまで来たからかも知れません。
それでもイエス様は、2000年前のユダヤの人々に注いだのと同じ愛を持って、私のかっこ悪い部分も、あなたの過去へのこだわりも、心の中に仕舞い込んでおきたい全ての罪を背負って十字架へと向かってくださったのです。あなたを愛するが故に。その大きな愛の前に、今日、畏れとかしこみをもって、自分自身を差し出そうではありませんか。
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