四旬節第4主日礼拝(2026年3月15日)(緑)
詩編23(旧854)
エフェソの信徒への手紙5章8―14節(新357)
ヨハネによる福音書 9章1―41節(新184)
私は小学校高学年から中学校へと成長期したのはもう半世紀も前のことです。母親はクリスチャンで一緒に教会に通いましたが、その一方で競争社会に生き抜く為という名目でたくさんの習い事も与えられ、日曜は教会、平日は学校と習い事、という忙しい生活を送りました。
そんな生活を続けていれば自然と生活も荒れるものです。校内暴力という荒んだ言葉も生まれていた頃で、親しい友達達は、けんかや盗みに手を出しました。喧嘩に勝つためにとか、ばれずに万引をするためになどとと、作戦や計画を立てさせられることもしょっちゅうでした。塾や習い事は適当にサボり、たまり場に集まっては粋がっていました。
が、やがて1人が盗みで捕まると芋づる式にずるずると捕まってしまい、私もその仲間ということで補導されてしまいました。「闇」から「闇」の世界です。
もし、みなさんが50年前にタイムスリップをしてその頃の私を見たなら、両親の教育方針やその子の資質など、評論家のようにあれやこれやいうかもしれません。小さい頃から教会で過ごしていたのに、あれは教会の恥だなと思うかも知れません。実際、当時通っていた大阪教会でもそれなりに白い目で見る人もいました。
しかし感謝なことに、その時の牧師夫妻をはじめとして、私の更生に手を貸してくれる方も何人もいて、私の中でイエス様を思う信仰も成長し、変わっていくことができました。
私たちはいつも無意識に自分や他人に「レッテル」を貼っています。イエス様に忠実に生きるために犠牲を払うよりも、「あの人みたいな能力はないから」「私が努力しても無駄だから」などなど自分に言い訳をし、いつの間にか「どうせ私は大して能力のないクリスチャンだから」とレッテルを貼ってしまいます。厄介なことに一度レッテルを貼ってしまうとそこからなかなか自由になることができません。そうやって自分の心の目を曇らせ、出口のない暗闇を作ってしまいます。
本日の聖書の福音書の場面を見てみましょう。生まれつき目の見えない人を前に、イエス様の弟子たちは「この人が盲人なのは誰の責任ですか?本人か両親が罪を犯したからですか?」と犯人探しを始めます。これは現代に例えば、補導された子を見て「親の育て方が悪いから」とか「あの子の根性が曲がっているから」と決めつける世の中の視線と同じです。
イエス様は、弟子たちの無責任で思いやりのない意見を取り合うことはありませんでした。ただ、弟子たちに向かってきっぱりと「誰の罪でもない。神の業が現れるためだ」と断言されたのです。
過去の「原因」を探ってあれこれ責めたてるのではなく、この困難を通して「これから何が起こるか」という未来に光を当てたのです。
弟子たちはただ好奇心で問いかけるだけで、その人と関わりを持つ気などありませんでした。しかしイエス様は全く違いました。目の見えないその人に癒しの手を差し伸べ、私はあなたの人生に責任を持つ、と神様の業を行われたのです。
ただ、そもそも彼はイエス様に助けを求めていませんでした。どこかのラビが面白半分に自分に関わろうとしているのか、うんざりだなあ、くらいにしか思っていなかったかもしれません。律法によれば生まれつき重度の障害を持つ彼は、神様から捨てられた存在なのです。からかわれたり差別されたりすることに慣れてしまっていたのでしょう。
そんな彼に対し、イエス様は地面に唾をし、唾で土を捏ねて泥を作ると、その人の見えない目に塗ったのです。唾でこねた泥を塗られて喜ぶ人はまずいないでしょう。もし彼の目が見えていたら、恥ずかしく、不快に感じたかも知れません。しかもそこは彼の人生を絶望に陥れた、最も悲しい部分だったことでしょう。
しかし、これはイエス様が彼の痛みに直接触れた瞬間でした。イエス様は、私たちが「一番隠したいドロドロした部分、闇に囚われてしまった過去や人間としての弱さ」を汚いとは言わず、そこに手を触れて、変えてくださる方なのです。
イエス様は泥を塗った後「シロアムの池で洗いなさい」と命令されます。見えない目に泥を塗られた彼の姿は傍目には惨めで滑稽な有様だったでしょう。イエス様が何をしようとしているのか十分に理解できていないため、彼の心はまだまだ闇の中です。しかしイエス様のご命令は一筋の光となって彼の心に差し込んでいました。その光が彼を突き動かしたのです。
イエス様が行くように、と命じられた「シロアムの池」のシロアムとは、「遣わされた者」という意味です。彼は盲人ではありましたが、シロアムの池の場所くらいは知っていました。しかし、地下水路の端にあるその池に行くには階段を降りなければならず、手探りで歩くのは大変だったでしょう。しかし、自分に関わってくださった方の言葉には威厳と思いやりが溢れていた、きっと何かが変わるはずだ。彼がイエス様を信じて一歩踏み出したとき、奇跡が起こりました。池で泥を洗い流した時、彼の目は見えるようになったのです。
彼の取った行動は、私たちが教会に集うことと似ています。心に満たされないものを抱え、大した期待もせず、ただ習慣として教会に足を運ぶとしたら、そこになんの意味があるのでしょうか。何も起こらないと嘆くだけの人でしょうか。しかし、ここでイエス様を信じて、本当に歩みだすとき、今の状況がどうであれ、その重い腰を上げた先に、新しい視界が待っているのです。
この時、目が見えるようになった彼は、その後、イエス様に反発するファリサイ人達から批判され問い詰められますが「あの人が私を治してくれた」という事実だけを握りしめて堂々と生きていきました。
もしかしたら、礼拝に来られる方の中にも心の中で神様に失望している方がおられるかもしれません。祈ったけれど何も良いことが起きなかった、そんな思いを抱えたままで、クリスチャンになってからも、その過去や失敗に痛みや辛さを覚えているかも知れません。
私たちは隠したい過去や触れられたくない傷を、神様に差し出すのは勇気がいります。けれども、私たちが信じる神、イエス様、そしてイエス様が示してくださった神様は、あなたが抱えている闇に光を与え、自分自身や世間から貼られたレッテルなど剥がしてくださいます。
あなたの過去は、これからの迷える人々の闇を抱えている人々の希望になる。
そう語りかけるイエス・キリストの光の中で、与えられた使命を跳ね返すのではなく、受け入れて、遣わされたものと自覚し、ともに、新しい景色を見ていこうではありませんか。
3月14日は土曜学校でした
長野市に引っ越したお友達が久しぶりに参加するというので
親しかった子ども達が誘い合い
いつもより少し男子が多く
トータル17名が賑やかに集まってくれました
…が、一方こちらはスタッフ不足
うれしい悲鳴を通り越して
礼拝から工作終了まで
かなりハードな2時間でした
ありがたかったのはお子さんと一緒に
参加してくださった保護者の方が
積極的にお手伝いくださったこと
そうでなければ乗り切れなかったかもしれません
本当に感謝です
恒例の「作品と一緒に」の写真
何名か載せておきます
見てやってください
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| 黙々と細部まで丁寧に作ってくれたNちゃん 選んだ色も爽やかで綺麗 今回の作品大賞はあなたです! |



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