出エジプト17章1-7(旧) ローマ5章1-11節(新)
ヨハネによる福音書4章5―42節(新)
本日は「サマリアの女」のお話しです。サマリア人というと、ユダヤ人と対立する人々であることは皆さんご存知だと思いますが、サマリア人とユダヤ人は元を辿れば同じ民族で、過去には共にモーセの十戒や律法を信じていました。
サマリア一帯はかつて北イスラエル王国と呼ばれており、南側は南ユダ王国と呼ばれエルサレム神殿を中心としていました。しかし北イスラエル王国は紀元前8世紀にアッシリアとの戦争に敗れ滅びてしまいます。その後、サマリア地域に他の民族が移り住んで混血が進むと、宗教も変化し、十戒の最後に「ゲリジム山に祭壇を築くべし」という独自の項目が追加されたという記録もあるそうです。
南ユダ王国の方も6世紀にバビロニアとの戦争に敗れますが、サマリアの人々とは異なり、血統的純潔と聖書の教えの継承に強くこだわりました。やがて復興を果たすと、先祖から受け継いだ律法とエルサレム神殿を信仰の中心とした宗教国家を作り上げます。こうして二つの国は似て非なるものとなり、礼拝する場所や聖書の解釈で激しく対立するようになってしまったのです。
そのサマリアで、一人の女性が、まっ昼間に、一人で水汲みをしています。通常、水汲みは涼しい朝夕に共同で行う社交の場です。この描写だけで、彼女の生き方が後ろ指を指されるようなものであり、人目を避けていたとわかります。
ここで著者のヨハネは、彼女の「孤独な水汲み」を、人間の心の奥にある「満たされない思い」の象徴として描いています。
一方イエス様はなぜこの時サマリアに来られた理由について聖書にこう書いてあります。「イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼を授けておられるということがファリサイ派の人々の耳に入った」揉め事を避けようとしたイエス様は、ユダヤ地方を去りガリラヤに向かいます。その通り道がサマリア地方でした。
ここで不思議なことが起きます。イエス様が真昼間に水を汲む、一癖ありそうな女性に話かけるのです。ユダヤ教のラビと不道徳なサマリアの女、この世的には全く相いれない者同士です。しかしこの女性の抱えている孤独や闇を感じ取ったイエス様はあえて話しかけるのです。会話は初めのうち全くかみ合わないように思えましたが、イエス様は彼女の心の闇に遠慮なく切り込んでいかれます。
イエス様は、洗礼をめぐって揉め事が起きたことに痛みを感じておられました。水によって洗礼を受けても、多くの人がそこ止まりで、形だけの悔い改め、形だけの信仰になってしまったことを知っておられました。だから不毛な水汲みを続ける女性に向かって、「この水を飲むものは、誰でもまた渇く」と言われたのです。そしてその後すぐに、「わたしが与える水、イエス様が与える水を本気で飲む者は決して渇かない」と約束されたのです。
この「渇くことのない水」とは何でしょう。日本でも神社や仏閣を訪ねてみますと、湧き水があって、その水を使って手等を洗い清めて下さいと注意書きがあります。水が湧いているということは、戦さや災害が起きても飲料水が得られ、生活が出来るということでもあります。
イスラエル神殿も同じことが言えて、旧約聖書のエゼキエル書47章には「命の水」と題した預言があり、この神殿から湧いている水によって、生き物がいきいきと生息し、植物は生い茂る、まさに命の水である、と記されています。
しかしイエス様は、神殿という固定された場所ではなく、ご自分こそが命の水だ、とサマリアの女性に示されたのです。
彼女は今まで心の渇きや孤独を癒そうとして次々と5人の夫を得ました。この人なら私を尊重し、守り、大切にしてくれる。しかしその思いは次々と裏切られ、今は夫ではない男性と共に過ごしていることをイエス様に指摘されます。しかし不思議なことに責められているというより、「心の重荷を打ち明けて神様に委ねるように」と促されているようでした。彼女は自分が心の底では何を求めているかに気づきます。それをイエス様に委ねたとき、彼女は孤独から解放されたのです。
私たちは神様の前では清く正しく振る舞う必要があると思いがちです。しかし上辺だけの正しさなど神の子イエス様の前では通用しません。イエス様がサマリアの女性のところに来られ、話しかけられたように、神様の方が先に救いを必要としている人に近づき、愛して、その孤独を癒そうとしてくださるのです。
その後、このイエス様と出会ったサマリアの女に大きな変化が起こります。彼女は水がめをおいて新しい人生へと歩み出したのです。水がめを置くということは、飢え渇きの象徴であった「水がめ」を手放したということです。汲んでも汲んでも空になる水瓶にしがみつくのではなく、イエス様こそ自分の魂が求めていた、乾きを癒してくださる主である、と確信したのです。
彼女はイエス様を伝えるものになりました。避けていた街の人々のところへ出向き、自分の過去をあえて晒し、イエス様の偉大さを証したのです。この私でもイエス様によって救われたのだとその喜びを示す時、人々の心に風が吹くのです。
劣等感や孤独から逃れようと誰かをおとしめたり虚勢を張ったりしても一時的な満足に過ぎず、心の闇は深くなるばかりです。そんな虚しいことはやめて、弱さを分かち合ってくださるイエス様の前に素直になり、自分を変えてくださったイエス様の存在を伝えることで、サマリアという町でさえ命の水を取り戻したように、誰であっても心の闇は清められるのです。
私たちが置かれている社会は、数の論理やお金持ちの論理で動いています。お金持ちになれば、やりたいことができて、満足する生き方ができるという考えが当たり前になっています。しかし、本当はそれだけで人は決して満たされることはありません。
イエス様が、あなたに与えてくださる「生ける水」を受け入れるとき、あなたの人生が劇的に変わり、あなたがこだわっていた一時しのぎの満足感から解放され、イエス様に繋がっていることに喜びを覚え、人生が回復するのです。そうすることで神様に感謝する日々が、いつまでも続くのです。
3月の土曜学校は14日に行います
100円ショップを覗きますと
2月中から可愛らしいイースターグッズが並んでいます
思わず手に取りそうになりますが、でもちょっと待って
イースターは単なる春のお祭りではなく
イエス様が十字架にかかって復活された日です
そして今はなぜイエス様が十字架にかかる必要があったのか
それは私たちの罪の身代わりだよね、と
思い巡らす「受難節」です
ということで土曜学校でもそういったお話をする予定です
工作は毎年イースターリース
心を込めて復活祭の準備をしましょう、という趣旨なのです


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