2026年3月22日日曜日

「キリストは復活と命」(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2026年3月22日)(紫)

エゼキエル書37章1-14(旧1357)

ローマの信徒への手紙8章6―11節(新284)

ヨハネによる福音書 11章1―45節(新188)


 本日の福音書は、ラザロの復活というお話で、死者の蘇りという衝撃的な出来事が記されています。受難週の前に、「もう手遅れだという諦めや絶望からの回復について」一歩踏み込んだ話として記されています。


 17節には「死んでからすでに4日もたっていた」と書かれていて、蘇生するには完全に手遅れであることを表しています。大切な人を失って「絶対無理だ」と絶望感を覚える時、イエス様は私たちに何を示してくださるのでしょうか。


 その前に、先ほど旧約聖書のエゼキエル書37章を読んでいただ来ました。これは受難節によく読まれる、「枯骨の谷」という有名な箇所です。死んで四日後どころではなく、いつ命を失ったのかわからないほどにカラカラに乾き切った骨に向かって、預言者エゼキエルが「神様の霊が入り、生き返る」と預言すると、骨がカタカタと組み合わさり、肉と皮に覆われて蘇るのです。


 この聖書箇所は、戦争に敗れ、信仰を失って霊的に死んでいたユダヤの民を、神様は新しい命へと再生させることができる、というテーマで表されています。それと同時に、神様はどれほど不可能と思われる状態からも、どんな命でも再生させることがおできになる、という「復活の希望」がシュールなタッチで描かれているのです。


 イエス様を出迎迎えたラザロの姉妹であるマルタは、ユダヤ人として幼い頃から旧約聖書に親しんできましたから、この聖書箇所を知らないわけはありません。ですから、イエス様が「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃった時、否定などせず、丁寧に「終わりの日に復活することは存じています」と答えたのでしょう。


 彼女は神様への信仰を失ってはいませんでしたが、兄弟の死という悲劇の目に、現実を自分なりに受け止めようと必死だったのです。


 気休めのような慰めはいらない、そんな思いに囚われている時、神様への信仰を持ってはいても、今目の前の出来事に神様のお力は適応されないだろう、と思ってしまう。言い換えれば、私なんかのために奇跡を起こしてくださるはずがない、私は見捨てられたのだ、という諦め。厳しい言い方ですが、この時彼女は信じているふりをしていることで済まそうとしたと考えられます。なぜなら本音は他のところに現れているからです。


 イエス様に向かって、マルタとマリアはそれぞれに同じ言葉を発します。マルタはイエス様を出迎えるとすぐ、「主がここにおられたら、私の兄弟は死ななかったのに」と言います。これは「過去への後悔」と「今の絶望」の中にいることをよくあらわした言葉です。


 マリアはマルタのようにサッとイエス様を迎えに行くことはできずにいました。マルタに呼ばれてイエスを迎えに村の入り口まで行くと、感情を抑えられず、「主がここにおられたら、私の兄弟は死ななかったのに」と泣き崩れるのです。


 他の人々も泣いているのをご覧になったイエス様もまた、涙を流されます。「イエスは涙を流された」この言葉は、聖書の中で一番短い言葉です。イエス様はラザロを生き返らせる力をお持ちであるにもかかわらず、死というものが人間をこれほど深い悲しみに陥れるのか、と改めて知り、周囲の悲しみに深く共感し、死の力に対する憤りと深い悲しみを涙で表されたのです。


 正論より寄り添い。悩んでいる時に「あなたが悪い」と分析されたり、「がんばれ」と励まされたりするより、ただ一緒に泣いてくれる人が必要なのではないでしょうか。神様は私たちの抱える絶望を「不信仰だ」と突き放すのではなく、誰よりも先に「一緒に泣いてくださる方」なのです。


 しかしこのお話は共感して泣いてくださっただけでは終わりません。イエス様は墓の入り口に立ち「石を取り除けなさい」と言われます。石を取り除ければ、腐って悪臭を放つ遺体と直面することになります。絶望と共に葬った遺体とをもう一度眺めれば、さらなる絶望しかありません。しかし、イエス様は人々に強いて石を取り除けさせると、暗闇に向かって、「ラザロ、出てきなさい」と叫びました。


 神様の声、イエス様の声は、私たちが「ここはもう見せられない、届くはずがない」と諦めている汚い場所にこそ、真っ先に届くのです。


 こうしてラザロは再び命を得ました。キリストから命を得、復活に預かったのです。ラザロは顔を覆いで包まれ、手と足を布で巻かれたままで、まるでゾンビのようです。それをご覧になったイエス様は穏やかな声で人々にこう言われました。「ほどいてやりなさい」。


 復活し、まだ十分に動けないでいるラザロに、イエス様はご自分で手を出すのではなく、ほどくのは周りの人達に任せられました。ここからはあなた達でできるだろう、と言われているようです。


 私たちを縛っている「過去や失敗」や「どうせ無理だろうという諦め」、生と死を隔てている包帯。そのようなものが見えていたとしても、イエス様は今日、泣きながら、叫びつつ、そして、ほどいてやりなさいとおっしゃいます。キリストが命であり、復活であるからです。


 もちろんこの後、蘇ったラザロにも、マルタにもマリアにもこの世の命が終わる時が訪れます。しかし復活の命を知った彼らは、喜びを持って御国で新たな命に蘇ったことでしょう。復活とは、誰も死なないでゾンビのように生き続ける教えではなく、人は一度死んでも新しい命を得ることができる、それを信じなさい、というイエス様の涙をもった教えなのです

 寒かった冬も終わり、あっという間に花々が咲き始めました。十字架に向かうイエス様は、命の在り方を変えるために、私たちの身代わりになって死ぬことで、私たちに「何度でもやり直せる命」をくださいました。


 「もう遅い」なんてことはありません。むしろ、これからです。今日、みなさんにある包帯をほどき、ほどかされ、あらたに命を得たものとなり、そして、軽やかな気持ちと足取りになり、キリストにある我が道を歩んでまいりましょう。




幼稚園正門入り口のすぐそばに
小さな植え込みとプランターの置かれたミニ花壇があります
そこの住人(?)ブリキのカエルさん
厳しい冬でボロボロになったこのヒトが
春の日差しの中で見つめる先には何が?

もうちょっと寄ってみましょうか

はい、青空のもと
卒園式が行われたのです
昨今いろいろ差し障りがありますので
式典の模様や園児さんの写真は載せられませんが
おめでとうございます
(式典そのものは礼拝堂で行われました)


いくつかの植物を実験的に植えてみましたが
早朝はマイナス10度近くにもなる厳しい飯田の冬
吹きっさらしで生き残ってくれた草花は
パンジー、ビオラ、シロタエギク、葉牡丹くらいでした
でも、一冬の寒さを耐えた花々は
喜ぶようにもりもりと咲いています
子どもたちもかくあれ〜〜〜(^▽^)

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