聖餐式・日本福音ルーテル飯田教会総会礼拝
(2025年1月26日)(緑)
詩編136編1~9節
ルカによる福音書 4章14-21節
聖書には、私たちが集う教会の原型とも言える施設が登場します。ユダヤの歴史の中から生まれたシナゴークという集会施設です。シナゴークはユダヤの人々が順調な時に生み出したものではありません。紀元前500年代、ユダヤの民が大国バビロニアとの戦争に負け、国も神殿も失い、捕囚として異国に連れて行かれた時、何を失っても神様への信仰だけは大切に引き継いでいこうと決意して生み出した施設なのです。
新約聖書の中にも、イエス様がシナゴークで旧約聖書を朗読し、癒しを行う場面が記され知ます。この時代を経てキリスト教が誕生した時、教会はシナゴーグのスタイルを引き継ぎ、今に至っている、と言えるでしょう。
人々は今も昔も集まって御言葉を学ぶことで、神様が何を望んでおられるかを知り、それを途絶えさせることなく伝えてきたのです。教会が聖書を神の言葉として何より大切にしてきたことで、人間が様々な悪事に染まり、失敗を繰り返しても、この地に再び救いがもたらされ、大袈裟な言い方かもしれませんが人類はなんとか続いて来た、と言えるでしょう。
ですから、私たちは教会の元となったその当初のシナゴークについて知ることで、教会の役割を再確認できるでしょう。シナゴークについては後でもう一度お話ししますが、この4月からリノベーションの終わったの会堂で伝道や宣教を行い、一人一人が自らの信仰を成長させていく為にも大きな助けになるはずです。
さて本日、教会総会礼拝の始まりに詩編136編の冒頭を朗読いたしました。この「いつくしみはとこしえに」という御言葉は聖書の中心的なメッセージとも言えます。「ここに愛が永遠にあるように」そう直訳するなら強いメッセージを受け取ることができます。
「慈しみ」という言葉は、一般的には自分より弱いものや目下のものをかわいがり、大切にすることを意味します。しかし聖書に記された「慈しみ」という言葉はさらにもっと深い意味が込められており、詩篇を紐解いていきますと、何度も何度も「慈しみ」という言葉で神様を讃えていることがわかります。
例えば詩編89編の1節は「主の慈しみをとこしえにわたしは歌います」と記されており、ここの「慈しみ」は「恵み」や「まこと」という意味で用いられています。また100編5節の「主は恵み深く、慈しみはとこしえに」は、「慈しみ」と「あわれみ」を結びつけて歌っています。
そして本日の119編では、この「いつくしみ」は「救い」という御言葉に結びつけて用いられています。「救い」には、「こんな私でも正しい者にしてくださる」という意味が込められています。
旧約聖書に記録されているユダヤの民の歴史を見ますと、彼らが生きて来た場所が長く平安であったことはありません。ユダヤの民は元々少数の民族でしたが、導かれたエジプトで繁栄し、増えすぎたのが元で奴隷扱いされて荒野へ逃げ出し、40年かかってイスラエルの地に移住し定住したことは出エジプト記やヨシュア記に記されています。
その後も他の民族との争いは絶えませんでしたが、どのような時にも、神様のご計画は共にあり、神様は「憐れみ」を持って関わってくださる。彼らはそう確信し、記録したのです。詩篇にはその想いが数多く綴られています。
彼らは祖国を失った時も、祖国に帰ることを許された時も、先ほどお話ししたように、集会所であるシナゴークで父なる神様への真剣な思いを語り継ぎました。
集会では、司会者は抜き打ちテストのように参加者の誰かを指名し、詩編やイザヤ書、エレミヤ書の巻物を渡し、その場で解き明かしをすることを求めました。これは若者への信仰教育の一つで、聖書の言葉を読み、覚え、いきなり問いかけられても神様が共に居られることを堂々と証しできるようになる方法でした。
幼稚園や教会学校で暗唱聖句をおこなったり、聖書日課や、礼拝での聖書朗読があるのは、そのスタイルを踏襲しているからと言えます。
本日読みました福音書では、イエス様もユダヤ教の習慣に従ってシナゴークの礼拝に参加され、イザヤ書の巻物を手渡されています。イエス様がお開きになった61章は、貧しい者への福音と呼ばれています。イエス様の解き明かしは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時に実現した」というものでした。過ぎ去った過去でも遠い未来でもない、今日、今、実現した、と宣言されたのです。この後どのようなお話をなさったのか、具体的には書かれていませんが、それを聞いた人々はイエス様の「口から出る恵み深い言葉に驚いた」と書かれています。
しかし本日は読んでいませんが、この後がいけませんでした。ナザレはイエス様の地元ですから、人々はイエス様がヨセフの息子としてお育ちになったことを知っており、大工の子がなぜこんな立派な言葉を語れるのかと好奇心が頭をもたげ、そちらに注目してしまったのです。
神様が与えてくださった礼拝の場所と時間、御言葉を証してくださるイエス様のお話。そんな素晴らしい状況の中で別のことに気を取られ、神様の慈しみを傍へ置いてしまったのです。この後を読みますと、イエス様への反発心や怒りが生まれ、イエス様を追い出し、崖から突き落とそうとするところまで行ってしまいます。
それでも、イエス様は神様の御心に集中できない人間の弱さを知っておられました。御心を理解できず、受け止めきれない苛立ちからイエス様を排除し命を奪おうとする人間の愚かさ、弱さを十分知っておられたのです。
私たちも礼拝に集中できずイエス様の導きを信じられない時があります。そんな私たちでさえ、イエス様は「まこと」を持って「恵み」を与え、「あわれみ」を持って救い出す為に、十字架にかかってくださいました。これこそが究極の慈しみなのです。
幼稚園の工事は次の段階に入り、
は職員室が建設中です
礼拝堂の耐震工事とリノベーションが終わるのはその後
イースターの直前になる予定です
旧園舎と礼拝堂は繋がっていましたが
今回切り離し工事を行い、その時
天井から棟札が出てきました
そこには聖句が記されていました
今年はこの御言葉を年間聖句として
皆で心に刻みたいと思います
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