主の洗礼(顕現後第1主日)礼拝(2025年1月12日)(白)
イザヤ書43章1-7節 使徒言行録8章14-17節
ルカによる福音書 3章15-17節 21-22節
本日ご一緒に読みます福音書の出来事は、イエス様が洗礼を受ける場面です。ユダヤ教ではもともと水による清めが重要な宗教的行為で、身も心も汚れから清めるために日常的に沐浴をしていました。
しかしヨハネが行った一回限りの洗礼は当時のユダヤ教にはなかったようですが「水によって清める」行為はユダヤ教徒にとっては馴染み深かったので、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けることの重さを理解し、それなりの決心を持って集っていたことでしょう。
4つの福音書には、どれにもイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事が記されています。今日は初めに、マタイがどんなことを強調したか、知っておきたいと思います。ご存じのように、マタイは生粋のユダヤ人で、一度はローマの手先となり税金を集める徴税人として働いていましたので民族の裏切り者のレッテルを貼られます。しかしイエス様との出会いによって悔い改め、再びユダヤ社会の中に受け入れられていきます。
そのような経過があるからでしょう、マタイの福音書には、聖書の民が悔い改めることの重要性、とりわけユダヤ教に関わる上層部が悔い改めなければ、イスラエルはどんどん堕落して滅んでしまう、そういった危機感が滲み出ています。
マタイは、国を救うためには高い身分にある人々や、議員として国を動かす、力のある政治家たちが悔い改め、洗礼を受けることが必要だ、と信じていた節があります。ですから、洗礼の記録を残すときに、ユダヤの政治と宗教の中枢にあるファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢ヨハネの元で洗礼を受けようとやって来たことを強調したのです。
彼らが洗礼によって清められれば、イエス様にの教えを身につけることもできるだろうし、愛に生きる道も新たに見出すに違いない、国の指導者たちが悔い改めたなら、一般民衆も悔い改めに導かれるはず、そうなれば、イスラエルは神の怒りと滅びを免れるかも知れない。という思いがあったようです。
しかし、結局、洗礼を受けて悔い改めたはずのファリサイ派やサドカイ派の人々が、ユダヤ社会全体に強い影響を受けるには至りませんでした。ファリサイ派やサドカイ派といえば一定の人数がいますから、イエス様に無駄な論争を挑んだり、十字架につけた人々と同一人物とは思えませんが、結局はイスラエルが滅びていくのを彼らは止めることができなかったのです。
マタイが福音書を書いたのは紀元50年頃だとも、いやいやもっと後の80年くらいだ、という説もあります。もし紀元50年頃だとすれば、その頃のキリスト教ははまだまだ広がりが小さく、信徒のほとんどがユダヤ人でしたから、マタイはユダヤの上層部が悔い改めることを諦めていないことをキリスト者たちに伝えたとも言えます。神様は歴史の中で、何度も滅びかけたユダヤの国を救ってくださった。どうか今回も救ってくださいますように。そんなマタイの熱い祈りも垣間見えます。
一方ルカによる福音書は、西暦60年ごろ、ユダヤ人ではないアンテオケ出身の医者ルカによって記されています。ルカは外国人で、ユダヤの人々から差別される存在でしたが、使徒パウロの友人となり、キリスト教を受け入れ、地中海沿岸に住むさまざまな人々に宣教をしました。そして時折エルサレムに戻っては、イエス様と直接関わった弟子たちからイエス様の愛の行動やお言葉を取材して、外国の人々でもわかるように福音書を記していきました。ですから、同じ出来事を描いても、自然とマタイとは違う視点を持つことになったのです。
ルカ福音書では、洗礼者ヨハネの元に集まった人々のことを、はじめは「群集」と記しています。雑多な人々ですが、そこには徴税人や兵士といった、一般大衆とは経路の違った人々も含まれていました。
マタイがファリサイ派やサドカイ派の人々といった、社会の中枢にいる人々を重要視したのとは異なり、ルカは愛に飢え、なんとかして悔い改めたいと願う、社会のはみ出し者がそこにいたことを記すのです。
また、書き進めるうちに、切実な望みを持つ人々に対してルカは「群集」ではなく「民衆」という言葉を用います。実はこの「民衆」というギリシア語は「ラオス」という言葉で「神の民」という意味です。自分が神の民になることを望み、神の国、天国の実現を願い、自分の命の使命が終えたら、神の国、天国で、神の子イエス様が来てくださる、門を開けてくださると知る人々を表す言葉です。
ルカによる福音書では、社会は上に立つ人々が変えていく、という視点はほとんど出てこないように思えます。洗礼を受け、イエス様の新しい教えを、愛の教え、業を始めるためには、そのままの自分ではダメだということに気づく者は、どのように小さく虐げられた者でも、神様の恵があるのだと記す慰めの書物です。
マタイの視点が正しいとか、ルカの視点に共感できるとか、私たちは好き勝手に評価することもできますが、どちらも神様が私たちに与えてくださった御言葉です。聖書があるからこそ、今も私たちは、混乱した社会にあっても、人の欲や罪や、悪い行いによって、汚された中にあっても、洗礼があるからこそ救いの実現のために喜んで働く者に変えらるのです。
私たちは、罪を持っているので、思わず神様に背くかもしれません。又、イエス様に教えられた愛の業を貫くほど、強い信仰はないかも知れません。けれども、挫いても悔い改めることを覚え、新たな力を受けることを信じて、進むことはできるのです。一回きりの人生で、何が正しいことなのか間違えずに見極めることは難しく、小さな失敗を何度も繰り返します。そのたびに自分は天国には相応しくない、と落ち込んだり、開きなおったりするのが私たちなのかもしれません。
しかしイエス様は失敗する人を跳ね除けるようなことは一切おっしゃいません。ですから、あやふやに迷いながら生きることはやめましょう。イエス様が父なる神を信じて生きる心を与えてくださったのです。イエス様と共に洗礼を受けている恵みに感謝してまいりましょう。
18日(土)は土曜学校の日です 幼稚園のカリキュラムに合わせて ちょっと季節外れ(?)な聖句が選ばれています さてどんな切り口でお話をしましょうか? |
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