顕現後第2主日礼拝(2025年1月19日)(緑)
イザヤ書62章1-5節 Ⅰコリント12章1-11節
ヨハネによる福音書 2章1-11節
今日は「カナの婚礼」の話です。「カナ」というのがこの出来事が起こった町の名前だということをすっかり忘れていたとしても、「イエス様が水を葡萄酒に変えたお話」と聞けば、思い出せるのではないでしょうか。
イエス様の時代、ユダヤ教での結婚式は町をあげてのお祭り騒ぎで、多くの場合1週間は続いたと言われており、相当大変だったことが想像できます。
ある本には、いよいよ結婚式も終わるという時に、花嫁さんが用自分の前に運ばれてきたワインを、飲むか飲まないかで、結婚が成立するかしないか決まる、という大変なイベントが待ち構えている、と書かれていました。
この資料を読んだ時、2000年も前の女性にそんな決定権が本当にあったのだろうか、とも思いました。しかし本当にそんな風習があったのなら、ワインがなくなってしまえばラストの大イベントができなくなり、結婚式そのものをぶち壊してしまうことになります。宴会に集まった客が、花嫁が最後にイエス、ノーを決めるはずのワインを飲み干してしまうとしたら、あってはならない事です。
その儀式が本当にあったかどうかは別として考えても、宴会の途中でご馳走やお酒がなくなってしまうというのは、その家や新郎新婦の恥です。そしてそれが町中に知れ渡ってしまえば新しい人生を歩む二人への厳しい評価につながりますし、その親たちも、なんて頼りのない一族なんだと見下されてしまうでしょう。
そんな時、母マリアはイエス様だけにそっと「ぶどう酒がなくなりました」と告げます。この時のマリアがどのような思いでイエス様に話したのかは分かりません。ただ、自分の息子には特別な力が宿っているのだから、なんとかしてくれるに違いない、という漠然とした期待があったことは間違い無いでしょう。
けれどもイエス様のお答えは冷たいとも取れるものでした。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです、私の時は来ていません」と拒絶をなさいます。「婦人よ」とは言葉は丁寧ですが、母親に対して用いるのは距離を感じます。
この時、イエス様のお言葉の中には「時」という表現が出てきます。「今はその時ではない」「神の子としての力を使うべきタイミングではない」そのような意味にとれるお言葉です。
この箇所をよくよく考えてみますと、「人々がいくら祈っても、こちらに都合よくイエス様はお答えになりません。世の要求を知って、教会がいくら焦っても、その場限りの甘やかしはしてくださいません」という意味に感じます。
しかし興味深いのは、イエス様から突き放されたかに見えるマリアの態度です。彼女は諦めないのです。その場にいた召使いに向かって「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と念を押すのです。マリアはイエス様が、この幸せな結婚式が台無しになるのを黙って見ている方ではない、と信じていたのです。イエス様が問題を解決してくださることを疑わなかったのです。
ここでイエス様のお気持ちは定まったようです。しかしパッと水を葡萄酒に変えるような安易な奇跡を行なうのではなく、ただ命令をお与えになります。
「水がめに水をいっぱいに入れなさい」
それを聞いた召使いは、水を口のところまでいっぱいにしたとして、何が起こるというのだろうか、と考えたでしょう。しかしマリアは「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言った。ならば自分もそうするまで、と従ったのです。愚かといえば愚か、素直といえば素直だと言えるでしょう。
イエス様のご命令だからという理由だけで、彼らは水瓶に水をみたします。この1メトレテスという単位は39リットルです。2から3メトレテス入りの水がめが6つなら、合計468から702リットルほどの水を汲んだことになります。水道などありませんから水汲み場を往復するのですが、水汲み場は町外れにあることが多く、しかも地下にありました。きよめの水がめをいっぱいにするため、召使いたちは水汲み場まで何往復もして、黙々と働いたのです。
さて、ここで福音書の著者であるヨハネは一つの問いを私たちに投げかけます。召し使いとは、誰のことだと思うか?と読んでいる私たちに問いかけるのです。
誰かの幸せのために、イエス様のお言葉だけを支えに、裏方に徹しながら奉仕する。これは教会員、牧師、そしてキリストに従う者一人一人の姿です。二千年間、教会はこのスタイルを大切なこととして守り続けてきたのです。
旧約聖書においても、信仰に生きる人がピンチに陥った時、預言者からその言葉を聞き、そのご命令に従うという場面が記されています。
それと同じように私たちは水をくみ、かめの口のところまでいっぱいにし、それを料理頭の所へ、宴席へ運ぶことしかできません。世間の人々は「ぶどう酒がなくなったぞ、もうないのか」「どうするんだ」「こうなったのは誰のせいか」などと意味のない犯人探しまで始めるでしょう。その声に耐えて水を運ぶのです。
たりようによっては誰にでもできる、平凡な業です。しかしイエス様を信頼しているからこそできる業です。そしてこの素朴な信頼の業を救い主は喜ばれ、奇跡は起きるのです。
ヨハネによる福音書は奇跡的なイエス様のみ業を「しるし」と呼びます。出来事それ自体だけでなく、その出来事に隠された深い意味を、指し示して「しるし」(セーメイオーン)、最初のしるしをここに記録しました。
私たちは今、教会を建てるという「しるし」に立ち合っています。金銭的にも精神的にもいっぱいいっぱいになりながら、諦めないで今日までやってきました。工事着工の段取りが付き、これからもイエス様の救いの業に関われることを喜びとします。
私たちが運ぶ水瓶は、いつの日か誰かのところで葡萄酒に変わり、キリストを証する印となるでしょう。決して無駄にはならない、それを信じて、イエス様のご命令に従って参りましょう。
昨日は土曜学校でした。
お友達は15人
お母さんも二人参加してくださいました
みんな時間ギリギリまで
取り組んでくれてありがとう!
ゆきだるまくんと作者が
良い感じに写っている写真をご紹介しておきます
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