2023年3月5日日曜日

「イエスとニコデモ」(日曜日のお話の要約)

四旬節第2主日礼拝・聖餐式(紫)(2023年3月5日)
創世記12章1-4節(15) ヨハネによる福音書3章1-17節(167)


 人生は順調な時ばかりではなく、病気や怪我、受験や仕事の失敗、愛する者の死、そんな逆境が突如襲ってきます。順調な人生を送ってきたとしたらその分だけ、挫折感や失望は大きいでしょう。神様に腹を立て、信仰から離れそうになるのもそんな時だと思います。

 世の中の優れた教師や先生、社会的なリーダーと呼ばれる人々の中には、そういった苦しみを経て、他人の痛みがわかる人間へと成長した例が多くあります。自分が辛い経験をしたからこそ、苦しむ人になんとか手を差し伸べようとします。
 宗教のリーダーであれば、傷付いた人が信仰を取り戻し、立ち直ることができるよう祈り、指導します。

 本日の福音書に登場するニコデモは、そのような生涯を送ってきた、名のある教師でした。ファリサイ派として人を指導し、議員としてイスラエルの政治に関わり、誠実で温和で優れた人格を持って、苦しむ人を救おうとしてきたでしょう。
 しかし当時のイスラエルはユダヤ教に統一される宗教国家とは名ばかりで、ローマの属国として支配されており、独立を勝ち取ろうと過激な行動に出る人々がいる一方、ローマに取り入って生活し、ユダヤ人としてのプライドも信仰も捨ててしまったような人々もたくさんいました。ニコデモは自分のやってきたことは何だったのか、と無力感を抱いていたことでしょう。

 ニコデモがイエス様の存在を知ったのはそのような時です。イエス様は通常はガリラヤ地方で癒しや宣教の旅をなさっていましたが、この時はユダヤの大切な祭り過越祭に参加するため、神殿のある首都エルサレムに来ておられました。そこでいくつもの奇跡の業をおこなわれたのです。それはご自分の名声を高めるためではなく、救いを求める人々に純粋に手を差し伸べた結果でした。

 イエス様の噂はニコデモに衝撃を与えました。ニコデモはイエス様こそ神様のところからやって来た方に違いないと確信し、なんとかして直接イエス様にお会いしたいと願いました。しかしエルサレムで顔を知られた存在である彼は、イエス様に教えを乞いに行く姿を誰かに見られたくない、とも思いました。強い葛藤の結果「夜にこっそりイエス様に会いに行く」ことにしたのです。

 すでに高齢だったニコデモは、自分の仕事が不十分だったとは恥じ、死んだのち神様から厳しい裁きを受けるだろう、と不安を抱いていました。ですからなおのことイエス様の救いの手を欲したのです。ところがようやくお会いして会話が始まると、彼の染み付いたプライドが邪魔をして、話がかみ合わなくなっていきました。

 イエス様はそんなニコデモの心の内を最初から見抜いておられました。イエス様は矛盾を抱えたニコデモに対し「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と、はっきりした言葉でお教えになりました。これは「神様からの力によって、人は神の国を見ることができる」という意味でした。

 しかしこのお言葉を理解できなかったニコデモは、さらに焦ります。イエス様に彼が今までしてきたことを全て否定されたように思えたからです。「私は神様の為に一生懸命やってきたのに、成果がないから最初からやり直しですか?ご命令なら私は母の胎に戻って、そこからやり直します。しかし、そんなことができますか?」これは半ば逆切しているような言葉で、ファリサイ派の温厚な教師のとるべき態度とは思えません。それほどニコデモはショックを受けたのでしょう。
 ただただ、どうしたら神様に赦していただけるか、認めていただけるか、愛していただけるか、と必死だったのです。

 イエス様はニコデモの様子から、今どんなに素晴らしい言葉を聞いたとしても理解できないとわかっておられました。しかし同時に、ここにニコデモを招かれたのは神様ご自身なのだから、信仰によっていつか必ず理解できる時が来る、と確信もしておられました。

 結局この夜ニコデモは、つかめそうで掴めない、不完全燃焼の思いで家路に着いたに違いありません。しかし、本日、読みました福音書の3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」はニコデモとの会話の中で語られた言葉です。

 「聖書の中の聖書」、「福音の全ての要約」とも言われています。その言葉を直接イエス様から聞きながらも、その時のニコデモの腑には落ちなかった、落ちなかったけれども、確かに彼の心に御言葉の種が蒔かれたのです。

 ニコデモはこれ以降あまり福音書には登場しませんが、ヨハネ福音書の7章50節では、他のファリサイ派の人々がイエスを一方的に非難するのに対し、「我々の律法では、本人から事情を聞き、何をしたか確かめた上でなければ判決を下してはならないことになっている」とイエス様を弁護しています。さらに、イエス様が十字架で亡くなり、弟子たちが逃げ去った後で葬りの手伝いまで行いました。

 あくまで伝承ですが、ニコデモは復活のイエス様に出会って回心してキリスト教徒となり、のちに殉教したとされています。殉教はさておき、私もニコデモはクリスチャンになったに違いないと思っています。

 イエス様の生涯を真剣に見つめ続けた彼は、あの夜に語られた「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉の意味がしみじみ分かったのでしょう。神様に認められよう認められようと努力する以前に、自分はすでに神様の限りない愛で愛され、永遠の命を与えられていたのだ、それに気付きさえすればよかったのだ。そう信じることのできたニコデモは間違いなく天の国に入ることができたはずです。

 ニコデモが新しく生きたように、私たちもイエス様を仰ぎ、この世の人生を歩んで参りましょう。


教会の道沿いに植えたクリスマスローズ(レンテンローズ)
明け方はまだまだマイナス気温ですが
元気に花開き始めました

白いクリスマスローズも開花中
まだまだ蕾があり、次々開くのが楽しみです

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