2023年3月12日日曜日

「南亜耳伯士(南アルプス)天然水」(日曜日のお話の要約)

 四旬節第3主日礼拝(紫)(2023年3月12日)大阪教会との中継礼拝
出エジプト 17章1-7節(21)詩編 95編(933)
ローマの信徒への手紙 5章1-11節(279)
ヨハネによる福音書 4章5-42節(169)

※朝比奈牧師は両親の納骨のため大阪教会の礼拝に出席し説教しました。飯田教会とZOOMで繋いでの礼拝となりました。

 

 飯田教会からは南アルプスを仰ぎ見ることができます。南アルプスといえばそこで採取される水が商品名になっているほど美味しい水です。


 昨年は教会員の有志の方々に助けてもらいながら南アルプスの3000メートル級の山、仙丈ケ岳に登りました。仙丈ケ岳の山頂にも湧き水が湧いていました。登山の折り、足の親指の爪を剥がしそうになるなど、大変な思いをしましたがそこで飲む水は格別でした。


 本日読みました福音書ではイエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方へお戻りになる途中でした。洗礼者ヨハネが始めた悔い改めの洗礼は多くの民衆の信仰に良い影響を与えましたが、ユダヤの支配層にとっては迷惑な話でもありました。そこで洗礼者ヨハネを捕らえて牢につなぎます。そしてヨハネよりもたくさんの弟子を持っていたイエス様も亡き者にしてしまおうと計画を立てたようです。


 それを知ったイエス様は急ぎガリラヤに戻ることにしますが、その途中どうしてもサマリアの町を通らなければなりませんでした。この「サマリア人」とは、ユダヤ人と他民族が混血した人々です。その昔サマリア地方がまだ北王国イスラエルの首都であったとき、アッシリアという大国との戦争に敗れます。そのおり強制移住させられてきた人々と混ざり合って生まれたのがサマリア人です。彼らも元を正せばユダヤ人と同じ血筋ですから、旧約聖書の一部を大切にしていました。しかし他民族の宗教も入り混じったため、純潔を重んじるユダヤ人からは見下され、表立った交流はほとんどありませんでした。


 イエス様はサマリヤのシカルという町の井戸のほとりで休憩され、弟子たちは食べ物を買いに出かけました。正午、12時頃のことです。そこにサマリアの女の人が水を汲みに来たのです。


 通常水汲みは陽の登る前の涼しい時間に済ませます。あえてこの時間に来るのは人目を避けたい訳ありの人々ばかりでした。そんな訳ありの彼女にイエス様は丁寧に「水を飲ませてください」と頼まれたのです。

 彼女はイエス様の疲れ切った姿を見、それがユダヤ人だと気づいた途端、見下すような態度を取りました。それはおそらく彼女が周りから白い目で見られ、虐げられていたからでしょう。優位に立てそうな人間を見た時、思わず図に乗った、という感じです。


 しかしこの後、イエス様との会話で明らかになることですが、彼女には周囲の人々から蔑みの目を向けられても仕方ないような倫理的な問題がありました。これまでに、5人の夫と暮らし、今また正式には夫ではない男性と暮らしていたのです。彼女は、彼女なりに信仰を持っていて、この世を救うキリストと呼ばれるメシアが来ることは信じていましたが、いつ来るのかわからないメシアよりも、今の自分の孤独を少しでも癒してくれる男性をついふらふらと受け入れてしまう。そんな生活を送ってきたのです。本当はどんなに高い山があってもそれを越えてきて、自分を救ってくれるスーパーマンのような存在が現れないかと、心の中で夢を抱き続けてきたのかもしれません。


 そんな彼女に対し、イエス様は「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったものがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたであろう」とおっしゃいます。すると彼女は「あなたは父ヤコブより偉いのか、あなたが飲ませてくれと言うこの井戸はヤコブから与えられたのだ」と答えます。彼女の言うヤコブとはイスラエルが北と南に分裂するはるか昔、創世記に登場するイスラエル12部族の父のことです。


 その後もしばらく会話が続きますが、そのうち彼女は痛いところをつかれて話をうやむやにして切り上げようとしたのか「やがてキリストと呼ばれるメシアが来て全てのことを教えてくれるから」と言い出します。するとイエス様ははっきり言われます「それは、あなたと話しているこの私である」


 ちょうどその時、弟子たちがイエス様の元に帰ってきます。それをきっかけに彼女は町に行き、「メシアが現れたかもしれない」と触れて回ったのです。人目を避けてきた彼女が街に出かけイエス様の存在を証するとはなんという変わりようでしょう。


 イエス様は、あえて「一杯の水を求める」ことをきっかけに、寂しく乾き切った女性に手を差し伸べ、その魂を潤し、救われました。

 イエス様はこの世の争いや分断のすべてを悲しまれ、慈しみを持って一人一人を魂の生き返りを促してくださいます。イエス様に語りかけられ、その愛を知った私たちは、神の民として、どこにいても、心に豊かな水を与えられながら生きることができるのです。


 この世のキリスト者には色々な苦難があります。しかし、その荒れ野や、高い山を越したところには、神様が備えてくださる、ほとばしるほどの水が備えられています。神様は私たちにその水を与えようと、すでにその計画を立てて下さっています。私たちは、イエス様を通して、神様を知るものとなりました。

 山登りのような厳しい日々が続いたとしても、全てを知る神様に委ね、その渇きはやがて潤されるのだと今一度固く信じて参りましょう。



2月19日、下伊那郡宮田村に短期留学中の韓国の中学生と共に礼拝したことをこのページでもご報告しました。

その中学から「お礼」としてお菓子がたくさん届きました。

飯田教会は小さく建物も古いので、お話があった時「うちのいいの!?」という思いがありました。

キリスト教人口の多い韓国の中学生たちはがっかりしたのではないかと思っていましたが、お菓子の中に入っていたお手紙が、とても心温まるもので素敵だったので写真でご紹介したいと思います。



枕くらいの大きな袋がいくつも届きました
中には子供たちの好きそうなハングルのパッケージのお菓子が
詰め込まれていました

とても配慮と愛のあるお手紙に感動です

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