2023年3月26日日曜日

「イエスは復活と命」(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(紫)(2023年3月26日)
ローマの信徒への手紙8章10-11節 ヨハネによる福音書11章17-27節


 本日の福音書は「ラザロの復活」という有名な箇所です。ラザロはマルタとマリアの兄弟で、以前から一家揃ってイエス様と関わりのある人々でした。ラザロは死んで墓に納められ4日も経っていたにもかかわらず、イエス様から「ラザロよ、出て来なさい」と呼びかけられると墓から復活して出てくるのです。


 事の始まりはマルタとマリアがイエス様の元に使いを送り、兄弟ラザロが重い病気だという知らせたことです。その時イエス様はベタニアからそれほど遠くない場所に滞在しておられました。きっとすぐに来てくださるに違いないと信じて「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と使いに言わせたのです。


 しかしイエス様は「この病気は死で終わるものではない。神様の栄光のためである」と言われるばかりで、すぐには動かれませんでした。二日間、同じところに滞在された後、ようやく腰を上げられます。


 その間にラザロは死に、マルタとマリアはて打ちひしがれていました。マルタはイエス様が教えてくださったように、神様の守りはいつも自分達と共にあると信じていました。だからこそ、一番助けが欲しい時に助けが来なかったことの意味がわからず苦しんだのです。


 マルタはイエス様の顔を見るなり「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と口にします。それでも彼女はイエス様の権威を傷つけまいと言葉を重ねます。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエス様には何かお考えがあってのことだろう、愚痴や恨み言はやめなければ、と必死でした。


 するとイエス様は、マルタにこう言いました。「あなたの兄弟は復活する」。すると、マルタは、イエス様の言葉を遮るかのように「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。これは、当時のユダヤ教において模範的な答えでした。自分達はユダヤ教の律法を守りつつ、イエス様にも愛されているのだから、死んでも神の国で復活するのだと信じていました。


 それに対し、イエス様は「わたしは復活であり、命である」という謎のような言葉を語られます。そして続けてこう言われます。「わたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」この言葉にマルタは「あなたはメシアです」と答えるしかありませんでした。


 「死んでも生きる」という言葉を聞くと、私たちはゾンビや幽霊のような存在を思い浮かべます。しかしイエス様が言われる「復活」とは、亡霊のように恨みや悩みを引き摺りながら生き続ける、という意味ではありません。イエス様がその人を苦しめる過去の思いや罪の意識から解放してくださり、どんな状況になろうとも決して手放さなず、ご自分と永遠に共にある、と宣言しておられるのです。


 私たちは誰でも平和に暮らせて、未来に夢と希望が叶う世界が来ることを望みます。それなのに、今この瞬間、病気や事故や天災、戦争、経済の悪化などで多くの人々が命を落としていきます。「神様がおられるなら、なぜこんな不幸なことが起こるのか?」この問いかけを止めるのは人間にとって難しいのです。


 それでも信仰を持つ人々は、亡くなった人々に想いを馳せながら、「きっと今頃天国で幸せに過ごしている」と自分を納得させようとします。ただ、その思いは一つ間違うと、マルタの「終わりの日に復活することは存じています」という言葉のように、自分の悲しみを偽る言い訳になってしまいそうです。


 しかしイエス様は、大切な人が死によって奪われた人間の苦しみを理解してくださる方です。「漠然と天国をイメージしながら自分を慰めるのをやめなさい、イエス様ご自身をしっかり見なさい」と強くおっしゃいます。地上の全てが過ぎ去り、終わってしまっても、イエス様と共にある者は永遠の命を持つ、と力強く約束してくださるのです。


 この時点でマルタが全てを理解できたとは思いません。それでも彼女は気丈にも家で嘆き悲しんでいるマリアを呼びに出かけ、イエス様の元に来るように促します。マリアはイエス様の前にきたものの、その場に平伏し、マルタ以上に感情をあらわにして同じ言葉を口にし、涙を流します。それを見たイエス様はマリアにはそれ以上何も言わず、そこにいた皆を連れてラザロの墓に向かわれます。


 この時イエス様は「憤っていた」と書かれていますが、この場にいる人々に怒りを向けておられたのではなく、人間を悲しみに突き落とし信仰を奪い取ろうとするサタンへの怒りが燃えていた、と解釈されます。


 ですからイエス様は墓に到着すると、まだ何も起きていないうちから「父よ、感謝します」とサタンに対する勝利の宣言をなさったのです。サタンは人間を絶望させ神様から引き離そうと、ありとあらゆる罠を仕掛けてきます。しかし父なる神様はそれら全てを打ち砕く力をお持ちであり、イエス様もご自分が願うことは全て叶えてくださると微塵も疑わなかったのです。こうしてラザロはイエス様の「出てきなさい」というお言葉に答えて復活したのです。


 もちろんこのラザロもいつかまた肉体の死を迎えるでしょう。それでもイエス様の奇跡を見て信じた人々の心の中には「イエス様と共にいるものにとって死は終わりではない」という強い思いが刻まれたに違いありません。


 私たちは、自分の計画と異なる出来事に直面するとき、絶望したり、投げやりになってしまい、最後までやり通す力を失いがちです。それでも、イエス様を信じるならば、そこに神様の愛とご計画を見る力が備えられていくのです。


 イエス様は何があろうと私たちと共にいてくださり、死すらもそれを妨げることはないのです。私たちはそれを信じ、与えられた役目を果たしてまいりましょう。



最近驚くほど暖かい日が続きます。

教会の道沿いに植えておいたチューリップも一気に花開きました。

クリスマスローズ(レンテンローズ)も花盛りです。

ハナニラも開花し始めました。

冬の間に痛んだ葉牡丹を抜いたところに

少し春の花を植え足して、華やかにしてみました。

写真を掲載しておきます。


近くの桜並木が記録的な速さで開花しました。

春の訪れは嬉しいけれど、温暖化の影響があることを思うと

喜んでばかりもいられません。

私たちもできることから本気で取り組まないと

未来ある子どもたちに申し訳ないですね。













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