2022年2月28日月曜日

イエスご自身の光(日曜日のお話の要約)

主の変容礼拝(白)(2022年2月27日)(要約)
出エジプト34章29-33節(152)ルカ福音書9章28-36節(123)

 まもなく受難節と呼ばれる40日間の悔い改めの期間に入ります。それが終わればいよいよイースター、復活祭です。
 本日は受難節に入る前に必ず読まれる「主の変容」について聞いてまいります。

「主の変容主日」とは、イエス様の光り輝く神々しさについての記録です。マタイ福音書は「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と描き、マルコ福音書は「服は真っ白に輝き、この世のどんな晒し職人の腕も及ばぬほど白くなった」と記しました。イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて山に登り、祈りの時を過ごしたとき、この三人だけに輝く姿を表されたのです。

 イエス様はご自分を待ち受ける十字架の死について神様の御心を聞くために、全身全霊で祈られました。ところがその間、三人の弟子は眠気を必死で堪えていました。やがてイエス様の様子が変わり、服は真っ白に輝き始めました。するとその栄光に照らされて、モーセとエリヤが現れます。
 モーセは紀元前13世紀ごろ活躍した出エジプト記の主人公です。本日の旧約聖書の日課で読みましたように、神様から直接十戒という掟を頂き、イスラエルの民を導きました。エリヤは紀元前800年台の預言者で、イスラエルの王でありながら信仰を捨て去ったアハブ王と対決しました。彼の働きは列王記上の17章から克明に記されています。

 モーセもエリヤも、それぞれの時代に、神様からユダヤの民を託され、懸命に働きました。しかし民衆はしょっちゅう弱音を吐き、愚痴をこぼし、裏切りを繰り返しました。そのため、モーセとエリヤの使命は、地上において十分に報われたとはいえませんでした。
 旧約聖書に記されたイスラエルの歴史には、神様への信頼と裏切りが繰り返し現れます。苦難の時は祈り、悔い改めるのに、平和になると自分の努力によって平和が実現したと勘違いし、神様の言葉を正しく伝える人々が現れると、迫害するのです。その愚かな繰り返しは、はっきりと旧約聖書に記されました。
 しかし神様はそのような民を見捨てることなく、忍耐強く守り、導き続けました。そしてとうとう神ご自身がイエス様となって、救いの御業を成し遂げるために、地上に降り立ったのです。そして人々を救う究極の方法を計画なさいました。それが十字架の道、苦難の道、死への道だったのです。

 イエス様は肉体を持って人としてお生まれになりました。ですから十字架に至るまでに味わう苦痛や屈辱について無関心ではいられなかったはずです。死の直前のゲツセマネの園で、できるならこの苦しみを取り除いてほしいと祈られたほどでした。しかし全ての人を救うためには人が味わう苦しいをご自分でも味わい尽くさなければならないこともご存知でした。

 ピンチに陥った人間は「神様は高みの見物をしている」と誤解して信仰を捨ててしまうことがあります。ですからご自分がとことん苦しみつつ、それでも神様に信頼している姿を示すことで、神様の愛を証明するしかないと決心されたのです。その苦しみを共有するため、元は人間であったモーセとエリヤが天の御国から降ってきて、死の向こう側について話し合われたのです。
 こうして、神として、人として苦しみを受ける決心をされたとき、イエス様のうちなる光は最高に輝きました。外側から照らされて輝くのではなく、内側から溢れる愛によって光り輝やかれたのです。
 その場にいたペトロは、モーセとエリヤとイエス様が光輝いているお姿を見て彼らがそこに留まることを望み「家を建てましょう」と口走ります。しかし、神様は「これは私の愛する子、これに聞け」とだけお答えになりました。ペトロが我に帰ったとき、イエス様が発しておられた光は消え、モーセもエリヤもその場にはいませんでした。

 神様は「イエス様に聞け」とだけおっしゃいました。人間が信仰の対象を像に刻んだり絵に描いたり、神殿ややしろを作ったりしてして礼拝することで安心しようとします。しかし神様は目に見えなくてもイエス様が側にいること信じなさい、と仰ったのです。キリストを信じるものは、そのピンチの時こそ神がそこにいてくださることを信じ、語りかけ、祈り、救いを求めることをお赦しになったのです。それがこの地上に来られたイエス様の大きな役割でした。

 弟子達はイエス様のことを、力はあるけれど自分たちと同じ人間として見ていたため、御心を理解することが出来ませんでした。しかし、復活されたイエス様と再会し、神の御子であると信じたとき、弟子たちは人間の常識に縛られることから解放され、神の御心を求めて心を合わせて祈ることができるようになりました。
 世の人が「今は祈るどころではない」「神頼みをしている場合ではない」などと言う時であっても、心から神様に祈ることができるようになったのは、人間の苦しみを知るイエス様がその祈りを聞き、導いてくださることを確信できるからなのです。そして私たちはその教えを引き継ぐものなのです。

 わたしたちが今置かれている状況は、楽観できるものではありません。コロナはなかなか治らず、世界の状況も不安定です。しかし取り巻く状況がどうであろうとも私たちは前を向いていきましょう。この場所が、主の栄光の姿を表す場所であり続けるために、共に話し合い、祈りあいながら、神様の国を建てあげるため、共に取り組んで参りましょう。


散歩道で福寿草を見つけました
昨年は3月3日に教会の皆さんと
車に分譲して群生地まで見にいきました
今年はまん延防止措置のため
皆で出かけることは無理なようです
なかなか顔を合わせられず寂しい限りですが
それぞれに優しい春が訪れますように

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