2022年2月20日日曜日

愛の精神(日曜日のお話の要約)

顕現後第7主日礼拝(2022年2月20日)
創世記45章3-7節(81) ルカによる福音書6章27-32節(113)

 今日ご一緒に聞いてまいります御言葉は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」です。
 生まれてから一度も腹を立てたことがない方はいないでしょう。もしかしたら今現在も、抑えがたい怒りや憎しみに苦しんでいるかもしれません。ですから本気でイエス様の話を聞いていれば、「そんなことできるわけがない」と、反発や反感を覚えることもあると思います。
 「汝の敵を愛せ」と命令されれば、むしろ心の中に封じ込めていた怒りが湧き上がってくるかもしれません。そして自分の中にある怒りや憎しみにうんざりし、イエス様はなんでこんな無理なことをおっしゃるのかと恨みさえ感じるかもしれません。しかしイエス様ご自身は「汝の敵を愛せ」をとことん実践なさいました。それは、福音書に記録されたイエス様の物語、全てに記されています。


 ただ、福音書を読み込んでおられる方は、イエス様がご自分を罠にかけようとした律法学者やパリサイ派の人々を論破したり、神殿で商売している人々を追い出したりする様子を思い浮かべるでしょう。イエス様だって、怒っておられるではないか、ご自身が教えとは異なった態度をしているのではないか、と思われるかもしれません。
 そんなふうに解釈すれば、イエス様も「ただ綺麗事を言うばかり」の普通の人になってしまいます。私たちが洗礼を受けてクリスチャンになっても、イエス様の教えに従いきれないのは、どこかでイエス様だって完全ではない、と考えてしまうからなのでしょう。


 確かに現代の聖書学者の中には、イエス様を完璧ではない存在として捉え、人間臭いからこそ魅力があるのだ、と主張する人々もいます。クリスチャンの中には、そういう学者の言い分を真に受けて、福音書の様々な記述を取り上げては「ほら、イエス様だってご自分の主張と行動に矛盾がある、隔たりがある、敵を愛し切ることができない、だから私ができなくても当たり前だ」と鬼の首でもとったかのように喜ぶ人すらいるのです。しかし、そういう方を自分の神として信じることに本当に喜びがあるのでしょうか。


 神様としての力を持ちつつ、性格は人間と変わらない存在というのは、実はとんでもなく厄介だと思います。世界中の神話にはそういった神々がたくさん登場しますが、それらの神々はわがままや気まぐれで天変地異を引き起こし、人間を翻弄します。そして人間たちはそんな神々の怒りに触れないように様々な制限の中で生贄を捧げたりしながら過ごしています。強大な力があって、人間と同じように怒りを爆発させるような神様がいたら、そんな神様の元で暮らすのはとんでもなく大変でしょう。

 創世記を読みますと、神様がかつて人間の罪深さに怒り、絶望して、ノアの家族だけを残して地上のすべての生き物を滅ぼしたことが記されています。神様が本気で怒るというのはそれぐらい凄まじいことなのです。だからこそ、神様はノアの信仰に免じて、もうそんなことはしない、と約束してくださり、その証として空に虹をかけてくださいました。これは創世記の「ノアの箱舟」として有名なお話です。


 イエス様はこの洪水を引き起こされた神様の御子です。しかしイエス様は、人間を滅ぼすのではなく、救うために地上に来られた神様です。ご自分が怒りにませて行動してしまったら人間にどれほど危害が及ぶか、一番よくわかっておられるのです。ですからイエス様が怒っておられるように見えるところを聖書から抜き出して、「ほら、イエス様も私と同じで短気だ」と考えるのは間違いなのです。イエス様は怒っておられるように見えても、我を忘れるようなことはなく、目的を持ってその行動をなさっているのです。


 本日の福音書でイエス様は「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と前置きしておられます。イエス様が神の御子だと知っている私たちは、イエス様のご命令について、今の自分では無理、などと簡単な結論に飛びつかないで、まずもう一度じっくり耳を傾けなければなりません。


 イエス様が十字架にかかる前の夜、ゲツセマネに人々が捉えにきた時、ペトロはイエス様を守ろうと剣を抜いて兵隊の手下に斬りつけましたが、イエス様はそれをいさめ、傷を癒されました。マタイによる福音書ではその時「剣を取るものは皆、剣で滅びる」という有名な御言葉を語っておられます。その後、イエス様は捉えられ不当な裁判を受け、十字架にかかられますが、「悪口を言うものに祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい」「頬を打つものにもう一方の頬を向けなさい」「上着を奪い取るものには下着を拒んではならない」という御言葉を十字架の死を迎えたその時に堂々と成し遂げられたのでした。


 イエス様は十字架に掛かった時、ご自分を陥れた人々を恨むようなことは一言もおっしゃらず「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われる方なのです。ルカ福音書23章34節のこの御言葉は、深い赦しの想いに満ちています。


 私たちが敵意や憎しみに翻弄される時、そういった感情をイエス様に委ねるなら、それはご自身が引き受けてくださるのです。


 福音記者たちは、イエス様のエピソードを記しましたが、彼らが人間である以上、表現には限界があり、イエス様の御心を全て写し取ることはできなかったかもしれません。私たちがしばしばイエス様の行動を誤解するのもそのためでしょう。しかし福音記者たちは十字架の出来事を克明に記すことで、「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい」とはまさにこれである、と伝えているのです。

教会から15分ほど歩くと
遠くに南アルプスがはっきりと見えます
川の水も澄んでいます
雪が消えたので、運動不足を解消するための
散歩をするのも楽しくなります


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