2022年2月14日月曜日

イエス様の教え(日曜日のお話の要約)

顕現後第6主日礼拝(2022年2月13日)
詩編1編1〜3節 ルカによる福音書6章17〜26節

 本日読みました福音書は「平地の説教」と呼ばれ、マタイ福音書の「山上の垂訓」と内容が重なってます。ただ、マタイ福音書に書かれている「心の貧しい人々は幸いである」と言う記述は、ルカでは「貧しい人々は、幸いである」となっています。抽象的な「心の貧しさ」ではなく、貧乏であることは祝福されている、とイエス様は率直に語られるのです。
 今も昔も自分自身が貧しい人や、社会の貧困問題に心を痛めている人は、簡単に頷けないと思います。それでも、イエス様はそのようなことはもちろんご存知で、その上で私たちに挑戦するかのようにこの言葉を投げかけるのです。

 この時期、イエス様の名声は広い範囲に伝わり、大群衆がイエス様の教えを聞くため集まって来ました。その中には既存の宗教や学問では心が満たされない人々もいれば、明日食べていくのも難しい貧しい人々もいました。そんな人々がイエス様の教えを求め、あるいは癒していただこうとしてイエス様に触れようと集まったのです。けれどもイエス様は「どんどん私に触れなさい」とは言われませんでした。
 イエス様はそこにいる限られた弟子達に向かって「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と、この世の常識を覆すようなお言葉を語られたのです。そこにはこの群衆を通して弟子達に学んで欲しいと言うイエス様の思いが込められていました。

 当時ユダヤ社会のトップに立っていた祭司や学者達は、格好ばかりの宗教儀式を重視したり、高い献金額を求めたりしていました。豊かになるのは神様に愛されたおかげで、貧しさや病気は神様の罰、というような考え方でした。イエス様はそれらが本来の神様の教えとは異なる、軽薄で幼稚な信仰であることをご存知でした。

 人が健康にも経済的にも恵まれ、幸せに長生きするのは稀です。病弱に生まれつく人も先天的な障害を持って生まれる人もいますし、事故や病気で障害を負うこともあります。金持ちが没落したり、貧しい家に生まれて一生涯貧しさの中で過ごす人もいます。人生の中で何一つトラブルを経験せず、悩みもなく、天寿を全うする人間などいません。それなのに人生の不幸が全て神様から与えられた罰である、と捉えていたら、悲しくて信仰など投げ出したくなるでしょう。

 旧約聖書のコヘレトの言葉には次のような一節があります。「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ 人が未来について無知であるように神はこの両者を併せ造られた、と」。時々神様は人が逆境に苦しむのを放っておかれるように感じることがあります。ただそれを正しく受け止めるなら、方向性がずれた人生の道を正し、思い違いを明らかにされることもあります。病気やケガや死を許容されることもあります。しかしそれは私たちを虐め裁き苦しめるためではなく、神様が側にいて支えてくださっていることを知る、最も良い機会なのです。

 自分を守ってくれない神などいらない、と拒絶する自由もありますが、今の逆境は無駄にならないと捉えるなら、神様の御心をさらに理解し、より深い信仰へと導かれる、またとない機会となるのです。

 もちろん、経済的に豊かになるために努力することは自体は悪いことではありません。とはいえ旧約聖書の箴言で、平安を持って生きる秘訣として語られるのは全く別のことです。「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会に等しい」と言う15章15節などはその代表と言えるでしょう。イエス様こそ心に朗らかさを与えてくださるお方なのだと知っている者は、貧しくても幸いなのです。
 富を追求することに心を奪われ、神様を忘れてしまうより、神様を近く感じながら貧しく生きる方が幸せなのだ、これこそが神様がユダヤ人におさずけになった知恵なのだ、とイエス様は弟子達にお伝えになかったのです。

 フィリピの信徒への手紙4章12節には過酷な宣教生活を生き抜いた使徒パウロの印象的な言葉が記されています。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしには全てが可能です。」。パウロの言う「わたしを強めてくださる方」とは言うまでもなくイエス様のことです。パウロはイエス様の弟子として順境の時には喜び、逆境の時には考えながら、その働きを全うしていったのです。

 イエス様がこの教えを人々に説かれて2000年近くがたちました。イエス様の御言葉は、まずヨーロッパ諸国に伝えられ、文化の中に深く根を下ろしました。やがて地球上の多くの国にイエス様の教えが伝えられ、キリスト教はさまざまな国家の形成に影響を及ぼしました。社会的弱者に手を差し伸べようとする動きの根っこの部分には、イエス様の教えがあるのです。
 しかし国家指導者たちは、国民の生活を守るために経済発展をさせようと駆け引きを行ううち、信仰を都合よく捻じ曲げ、教会に間違った教えを説くよう圧力をかけることすらありました。現在もキリスト教信仰を持っている国と国が争う様は珍しくありません。
 そんな時、キリスト教は無力だ、などと短気を起こしてイエス様の教えを放棄してしまうのは愚かなことです。いくら祈っても世の中は変わらないと決めつけてしまうのは、「貧しき者は幸いなり」と教えてくださったイエス様を否定することになるのです。

 貧しくとも平安を与えてくださるイエス様と共に、豊かに、愉快に、人生を生き抜くよう導かれていることを忘れないでいたいのです。
 昼も夜も主の教えを口ずさみながら、イエス様の教えと共にある人生こそ、何よりの喜びであると今一度心に刻み、この1年も信仰の成長を祈って参りましょう。


牧師の車も園バスも雪まみれです
今年はどこの地方も雪が多いようですが
南信州も例外ではありません
今朝も幼稚園&教会の周りや駐車場の雪かきで始まりました
日の当たるところはお昼にはほとんど解けましたが
日陰はどこの家の前も雪がてんこ盛りです







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