2020年12月1日火曜日

キリストの言葉(日曜日のお話の要約)

待降節第一主日礼拝(2020年11月29日)
イザヤ書64章3-4節 第一コリント1章8-9節 マルコ13章24-31節


 いつの時代も子どもたちは正義のヒーローが大好きです。先日、園庭で正義のヒーロー同士が戦っていました。「私は仮面ライダー何々だ、お前は誰だ」「私も仮面ライダー何々だ」と同じ名前を名乗り、決闘の真似ごとが始まります。
 子どもが他愛ないヒーローごっこをやっている間は良いのですが、年齢が上がるにつれてスポーツの世界などでヒーローを目指しても挫折を味わうことになります。ヒーロー願望は屈折してしまい、他者に対して優越感を持ちたいという思いだけが残り、身近にいる自分より弱そうな人間を引き立て役に利用したりいじめたり、という行動につながり、「弱きを助けて悪を挫く」ヒーローとはかけ離れてしまいます。人の正義というのは状況によって簡単に変化してしまうのです。
 さて、イエス様がお生まれになったのはおおよそ2000年前です。祖国であるイスラエルはローマ帝国との戦いに敗れ、属国として支配を受け、重い税金を課せられていましたいました。
 ユダヤ人の社会はユダヤ教の神殿を中心として宗教と政治を宗教国家でした。神殿で神様に仕える祭司と、神様の掟として与えられた律法を守り教えるファリサイ派が2大勢力でした。彼らはローマ帝国と渡り合って、自国の民を守る立場でしたが、長いものに巻かれるかのようにローマに妥協しました。その姿を見て、ユダヤの民は失望することも多かったのです。
 そこで、民衆の中からもう2つの流れが出てきます。一つは権力にと結びついた宗教観を嫌って街を捨てて荒野に赴き、ひたすら神の言葉に従おうとする信仰者の群れ。
そしてもう一つは自由な国の再建を求めて戦おう、という「熱心党」と呼ばれる人の集団でした。彼らは非常に熱狂的で、ユダヤが独立した国家となるためなら手段を選ばず、自分の命を懸ける人々の集まりでした。イエス様の時代、ユダヤの人々の心はバラバラだったのです。
そんな混沌の中、次のように説く人物が現れました。「貧しかろうが豊かだろうが、神はみんなを救います。ローマ人だろうが、ファリサイ派だろうが、関係なく受け入れ、愛しなさい。神が平等にみんなを愛するように、みんなも神様を愛しなさい。そうすればやがて神の国に入れる。最後の審判のときに救われる」これは、世界史の教科書に載っている、博愛主義とも言われるイエス・キリストの言葉の要約です。
 言葉だけなら、そんなことはただの理想だ、と思うでしょう。しかし、その日の生活にも困っているユダヤの民衆や、神の言葉に飢えている人々、暴力的な熱心党の人々までもがイエス様のもとに群がりました。それほどまでにイエス様の言葉には説得力が備わっていたのです。
このイエス様の働きは、ユダヤ社会のユダヤ社会の上層部の人々、祭司やファリサイ他人たちにとって都合の良いものではありません。社会の秩序が乱れると思った彼らは、当時ローマから派遣されていたローマ総督ピラトにイエス様を反逆者として訴えました。こうして裁判の結果、イエスは十字架にかけられ処刑されました。しかし、その後イエス様は復活します。イエス様が天に変えられた後は、弟子たちがその教えを広め始めます。
 イエスから直接教えを受けたペトロたち、そして少し後には、もともとはファリサイ派でイエスの教えを迫害する側に立っていたパウロといった「使徒」と呼ばれる人たちが大きな働きをしていくのです。彼らの伝道の結果、地中海沿岸の様々な街に教会が生まれ、そこで洗礼を受けた信徒たちを教え導くために指導者たちはたくさんの手紙を書きました。「何々人への手紙」というのがそれに当たります。
 そして、やがてイエス様と実際に行動を共にした弟子たちがイエス様の伝記でもある「福音書」を書き起こしました。手紙も福音書も始めのうちはかなりの種類があったようですが、後の時代に、読み継ぐにふさわしいものが選別され『新約聖書』が生まれたのです。
 こうして「キリスト教」はみ言葉によって整えられていくのですが、その過程でユダヤ人たちは国内に住むキリスト教徒を迫害しました。そこでユダヤ人キリスト教徒はユダヤの地を離れ、各地に散らばることになります。
 そのような折、西暦70年、ローマとユダヤの国の間に戦争が起こります。神殿は焼かれ、多くのユダヤ人たちは籠城した挙句に自ら命をたちました。しかしキリスト教徒たちはそれ以前にユダヤの国から逃げ出していたので、生き残ります。
 最後まで残ったユダヤ人は戦いに負けてローマ人の奴隷になるくらいなら死を選ぶことを誇りと考えました。しかし、イエス様とその教えを信じた人達は厳しい戦が起こって神殿が壊されても剣を取ることはありませんでした。互いに愛せ、というイエス・キリストの言葉に踏みとどまり、その教えを広めていくことにその生涯をかけたのです。彼らが命を落とすのは、教えを捨てろと迫られた時だけでした。これが初期のキリスト教徒たちがイエス様から教わった正義だったのです。
 誰にでも自分の信じる正義というものがあるでしょう。しかしそれが本当に正しいのかどうかは神様だけがご存知です。
 人間の考える正義は時代や立場によって翻弄されてしまいます。だからこそ私達は、自分の心の中でキリストの御言葉に養われる正義の心が健全に育っていくことを望んでまいりましょう。


牧師館の物干し台で今年もネリネが咲きました
花びらがキラキラして美しく
「ダイヤモンドリリー」の別名も頷けます
もう15年以上のお付き合い
晩秋になると思い出したように咲いてくれる
ヒガンバナ科の球根植物です


礼拝堂でもクリスマスツリーがキラキラ
電飾は付けていませんが
小さなベルが光を反射して
輝いています



0 件のコメント:

コメントを投稿