2020年11月2日月曜日

先人達の信心(日曜日のお話の要約)

 聖餐式・全聖徒の日の礼拝(2020年11月1日)
ヨハネ黙示録 7:16-17 ヨハネの手紙Ⅰ 3:2 マタイ福音書23:1-12

 人は生まれて出生届を出すと戸籍ができます。教会にも教籍簿という書類があり、洗礼を受ける教籍簿に名前が掲載されます。引越しや結婚その他の事情で他の教会に移ると「転籍」と記載されます。この世を去って天に召されると、その日が召天日として記されます。教籍簿は教会の戸籍なのです。

 飯田教会の100年を超える歴史の中で受洗したのは776名。そのうち、教籍簿に召天日がきちんと記されているのは、110人でした。多くの方が転籍届けもないところを見ると、人生の途中で教会から離れていったようです。家族の中でたった一人のクリスチャンで、身内の方が届けを出せなかった可能性もありますが、クリスチャンとして生涯を全うすることがいかに難しいかわかるような気がします。


 さて、福音書に登場する律法学者やファリサイ人たちは、イエス様とことごとく敵対する、頭の固い人々のように描かれています。しかし彼らは、もともとは神様のからの教えを人々に説いて聞かせ、民族を導く役割を与えられていました。

 イスラエル民族は、神様から愛され守られてきました。それは彼らが他の民族に比べて特別に優秀だったとか、特別に信心深かったとかいう訳ではなく、神様の側に100パーセント理由がありました。神様ご自身が、小さな群れを選び、導びき、教養を与え、民族として成長させたのです。旧約聖書にはその過程がしっかりと記録されています。

 律法学者やファリサイ派の人々は豊かな聖書知識を持ち、その内容を国民に教えるエリート集団でした。ですからイエス様は群衆と弟子たちに「律法学者やファリサイ派の人々の言うことは、すべて行い、守りなさい」と言われました。しかし続けて言われたのは「彼らの行いは見倣ってはならない」という厳しいお言葉でした。これは律法学者やファリサイ派の人々は言っていることとやっていることが違っている、という意味に理解できます。

 イエス様は、彼らの信仰的な態度は人に見せるためのパフォーマンスに過ぎない、と見抜いておられました。例えば「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」という表記があります。ユダヤの民は、聖書の教えの書かれた紙を箱にいれ、腕に巻く習慣があったようです。それを人に見せようとしてだんだんだんだん大きしていったのです。

 もう一つ、衣服の房というものがあります。ユダヤではこの房には、「主のいましめを思い起こす」という意味が込められており、イエス様もご自分の衣服に房をつけられました。福音書には長い間病に苦しんでいた女性が、イエス様の服の房に触れて癒される、という描写があります。

 しかしその房を、人に見せるためにより大きく、より長くしたのがファリサイ人達だったのです。つまり「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」というのは、見せかけの信仰に陥っている人々を表す言葉だったのです。

 イエス様は続けて、「先生と呼ばれることを好むな」と言われます。先生と呼ばれることに慣れてしまうと、自分をひとかどのものと勘違いして偉そうに振る舞うようようになるから、先生と呼ばれることに酔ってはいけない、と言われたのです。

 社会的に「偉い人」「先生」と呼ばれる人ほど、自分を戒め、謙虚になる必要がある、とイエス様は教えられました。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」とおっしゃったのです。

 イエス様は十字架に掛かる前の日、最後の晩餐が始まる前に弟子の足を洗われました。足を洗うと言う仕事は本来なら使用人がする者でした。それを神の御子がなさったのです。イエス様は、ファリサイ人や律法学者のように「言うこととやってることが違う」方ではありませんでした。仕える者、僕になることを厭わなかったのです。

 その究極のお姿が、十字架の上で命を落とされることでした。人間は自分一人の力では決して純粋な「仕える者」にはなれない、だからこそ、私に倣いなさい、共にいて教え導き、力を与えてあげるから、とおっしゃるのです。


 この教会が誕生した120年前、ここに集まった先人達は、病める人や虐げられた人を救い、町の雰囲気を変えるまでの信仰があったことが記録されています。ここに神学校を創るほどの勢いもありました。

 しかし、その後は、時代の変化の中で、多くのものを失いました。残された数々の写真を見ていると、こんな良い時代もあったのだな、と思われるかもしれません。長くこの教会におられる方は、伸び悩んでしまった原因など思い当たるかもしれず、気持ちが沈むかもしれません。しかし私たちが素直な心で祈りを重ね、イエス様の導きに従うならば、今一度一人一人に与えられている役割が見えてくるはずです。

 本日はここに遺影が飾られた人々だけでなく、かつて洗礼を受け天に召された数多くの人々と礼拝を共にしています。今は地上と天の国に分かれていますが、いつの日か神の国、天国で再会するでしょう。その時まで、一人一人が神に愛された者としての歩みを積み重ねてまいりましょう。



11月の掲示板内のレゴは
恐竜の化石(骨格標本?)
園児たちが博物館に見学に来た
という設定です

「先生すごい!」とお褒めの言葉を
いただきましたが
実はキットですから、根気さえあれば
誰でも作れますよ、念の為( ^ω^ )

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