聖霊降臨後第21主日礼拝(2020年10月25日)
レビ記19:18 Ⅰテサロニケ2:7-8 マタイ福音書22:41-46
本日の福音書では、ファリサイ派の人々がイエス様を試そうとして問答を仕掛けてきます。彼らに対してイエス様は「あなた達はメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか」と、逆に彼らに問いかけました。ファリサイ人達は「ダビデの子です」と答えました。
旧約聖書には、いつかイスラエルの大英雄・ダビデ王の血を引くものの中からイスラエルを救いに導く救い主(メシア)が登場する、その人はダビデゆかりの街ベツレヘムで生まれるとはっきり書かれていました。
このダビデ王とはイエス様の誕生したよりも1000年も昔に活躍したイスラエル2代目の王様です。神様は初代の王サウルの娘婿で国民の人気も高かったダビデを次の王様に指名しておられましが、サウルは権力の座にしがみつこうとするあまり、ダビデを亡き者にしようとします。
しかしダビデは、サウル王に危害を加えることは信仰に反すると堅く信じ、逃げて逃げて逃げまくります。やがてサウルが異民族との戦いに敗れてなくなるとようやく王座に就いて、国を繁栄に導くのです。失敗もありましたが、ダビデ王といえば神に愛された素晴らしい王様で、ダビデ王の時代とはイスラエルの輝かしい時代の代名詞でした。
イエス様の地上での父であるヨセフはダビデの血筋でした。クリスマスシーズンの礼拝で読まれるルカ福音書にはこう書かれています。「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」。ヨセフは平民で大工をしていたけれど、遠い先祖は王族で、ベツレヘムに住んでいたのです。
もちろんイエス様は聖霊によって乙女マリアの胎に宿られた神様の御子ですから、ヨセフと血縁関係はありません。ただ、民衆が信じる救い主「ダビデの子」「ベツレヘム生まれ」という要素は満たしておられました。
説明が複雑ですが、イエス様がファリサイ派の人々に「メシアは誰の子か」と問いかけ、彼らが自信を持って「ダビデの子です」と答えたのにはこのような経緯があったのです。
そんな彼らの答えに対して、イエス様は再び問いかけます。「聖書によれば救い主はダビデより立場が上だと書かれているのに、救い主がダビデの子だというのはどういうわけか」。ファリサイ人達は聖書に詳しいだけに、かえって誰も言い返すことができなかったのです。
イエス様は、確かに形の上ではダビデの子孫としてベツレヘムに生を受けられます。しかし、それが大事なことではない、と言われます。
ダビデはどれほど英雄であっても一人の人間に過ぎず、彼の作り上げた王国は4代目で分裂し、崩れていきました。大英雄であろうとも、人間の力だけで未来永劫繁栄の続く国を作り上げることはできないのです。
イエス様は、この問答を通して、ダビデの子孫が人間を救い解放する救い主(メシア)となるのではない、と言われます。イエス様は人々を納得させるためにも、わざわざ人となられ、ダビデの子としてベツレヘムで生まれてくださったのであり、むしろ神が人となることに重要な意味があると言われたのです。
残念ながら私たちは、イエス様の教えをファリサイ人達は理解しなかったこと、民衆に裏切られ十字架の上で血を流されることを知っています。何一つ罪を犯したことのない神が人間になり、人間の犯した全ての罪を引き受けるために十字架にかかられたことを見つめる時、私たちは本当のメシア、本当の救い主とは誰なのかを知ることになるのです。
さて、本日は宗教改革を記念しての礼拝です。ルーテル(ルター)の生まれた500年前、キリスト教はヨーロッパ諸国で絶対的な力を持っていました。宗教指導者達は特権階級として君臨し、聖書を読むことができるのも彼らだけ、一般民衆は聖書や信仰についてあれこれ考えず、教会に言われたことだけ素直に守っていれば良い、という状態でした。
そんなヨーロッパをたびたびペストが襲い、貴族社会とそれに繋がる教会は財政難に陥ります。そこで手軽にお金を集める方法として、免罪符が考え出されます。教会は「免罪符を買いなさい、そうすれば徳を積むことになる」と人々を煽りました。免罪符は飛ぶように売れましたが、それに疑問符を投げかけたのが、ルターだったのです。
ルターの説くキリスト教はシンプルでした。聖書には、イエス・キリストご自身が私たちの道となり、天国へといざなってくださると約束されている、と説いたのです。この世界を創った神様がどれほど人間を愛し、その働きに期待しておられるかを、聖書を通して説き明かしていきました。市井で歌われる流行歌を利用して賛美歌を作り、文字の読めない人々にも教えを広めたのは有名な話です。
こうしてルター達の働きによって改革された教会では、金持ちになる方法や、病気が治る奇跡とか、そう言ったことにはほとんど触れません。ただ、この地上に生きている私たちが、どうしたら互いに平和に暮らしていけるかを共に探っていこう、と語りかけるのです。
宗教改革を覚えるこの日、マルチン・ルターが取り戻し与えてくれたイエス・キリストを正しく信仰する心を持って歩んでまいりましょう。
それにしても大迫力です、草間彌生! 何枚でも撮ってしまいます 《幻の華》2002年の作品だそうです |
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