2020年2月24日月曜日

イエス様の本当の姿(日曜日のお話の要約)

変容主日礼拝(2020年2月23日)
出エジプト24:12-18 Ⅱペトロ 1:16-21 マタイ福音書17:1-9

 この日、イエス様は弟子の代表であるペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られます。そこでお彼らの目の前で姿がで変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と書かれています。その上、目の前にモーセとエリヤが現れ、3人で語り合い始めたのです。弟子たちはそれはそれは驚いたのではないでしょうか。

 モーセとエリヤは、強い信仰を持ってイスラエルの人々を導き守った、旧約聖書の英雄です。モーセとエリヤは天国にいると信じられ、特に預言者エリヤは、この世の中が終わる時の先ぶれとして必ず地上にやってくると言われていました。
 そんな二人が目の前に現れ、イエス様も今まで見たこともないお姿に光り輝いています。イエス様、モーセ、エリヤの3人がこの山にいるということは、ここは天国そのものです。ペトロは、3人にいつまでもとどまって欲しいと願い、とっさに仮小屋を建てると申し出ます。しかしながら、この申し出は聞き入れられませんでした。
 彼らが今この時に、ここに集まったことにはペトロの予想もつかない、大きな意味があったのです。

 モーセもエリヤも、過去においてなかなか神様のいうことを聞かない民衆を導いてきました。その二人に対してイエス様は、これからのご自分の計画をお話になったのではないでしょうか。イエス様が十字架に掛かり、一人一人の罪を償うことで、神様との和解と赦しが得られるという計画です。和解した人々はこの地上で命を終えた後、再び天国で命を得るという素晴らしい計画なのです。
 モーセとエリヤは賛成とか反対とかいう立場ではなく、イエス様が神様の約束を果たすために、壮大な御計画を実行に移される、その事の励ましのために現れたのだと解釈されるのです。

 イエス様は、ご自分で望まれさえすれば、十字架の死の苦しみや死を回避する道もありました。苦しみの道をこのまま歩んでいかれたとしても、ちゃんと信じる人がいなければ、その計画は失敗であり、苦しみ損ということになります。
 私たちの救いのためにイエス様が選ばれる方法は、本当にこの道しかなかったのでしょうか。

 伝道者パウロはコリントの信徒への手紙一 1章21節に「宣教という愚かな手段」と言う言葉を用いています。宣教とは「十字架につけられたキリストをコツコツと宣べ伝える」ことです。イエス・キリストを、私たちのために十字架につけられた方として受け入れ、その上で、他の人々にもキリストは神の子、救い主と宣べ伝えましょう、と呼びかけるのです。ある意味、なんとまだるっこしいのか、と思わずにはいられません。
 神様は、人間がもっとパッパッと信仰に入れる方法を考えてくれても良かったのではないか、と思いつつ、しかしこれしか方法がないのだ、だからこそこの手段は「愚かなようで愚かではない」とパウロは述べています。

 イエス様が十字架の上で苦しみに耐えて死なれたのは、私たちが神様の救いに招かれていることを伝えるためであり、それを伝えるためならば、ご自分の命などいらない、そう思われるほどに私たちを愛してくださったのです。
 この事実を宣べ伝え、愛されているのは自分だった、自分のためにこそイエス様は死なれた、そう信じられる人を掘り起こしていく。どれほど時間はかかっても、これこそが確実な手段であるとイエス様は確信しておられました。そのために、この苦難の道を選ぶ決意をされたのです。
 そしてペトロに対し、仮小屋など作って神をいたずらにを祭り上げるのではなく、これから十字架の道を行くイエス・キリストに全てを聞けと言われたのです。

 私たちは、些細なことから神様の愛と赦しを疑い、不安に心が占められることがあります。長年信仰的に生きてきたはずの人でさえ、試練の中で救いの確信がぐらつくこともあります。そのような時、私たちはもう一度教会を通して十字架を見つめ、イエス様がどれほど私たち一人一人を愛してくださったことを思い返しましょう。


 イエス様は天地の全てを作られた光り輝く偉大な神であると同時に、私たちの身近にいて手を差し伸べてくださる方なのです。私たちは、そのイエス・キリストの姿を自分の置かれた場所で示す使命を担っています。その声に従っていけますように、祈りあって歩んでいきましょう。


ルーテル幼稚園の先生方に誘っていただき
教会員の推定80歳(!)の方と4人で
開田高原までスキーに行ってきました
(出発前に牧師館の前で撮りました)

一日過ごして一番バテたのは私でした

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