顕現第6主日礼拝(2020年2月16日)
申命記30:15-20 Ⅰ コリント3:1-9 マタイによる福音書5:21-26
自分で自分の信仰的限界を決めてしまいがちな方の決まり文句に「こんな私でもイエス様は愛してくださる」という言葉があります。もちろんこれは真理ではありますが、一つ間違えれば信仰の乱用となります。出来ない自分に開き直ることで、自分で自分のクリスチャンとしての成長を止めてしまうのです。
イエス様は私たちが何者であっても受け入れてくださいますし、どれだけ失敗を重ねても変わらず愛してくださいます。しかしキリスト者として成長する努力をやめてしまいなさい、とは仰らないのです。私たちは生涯、イエス様の教えに従って、人として相当にハードルの高い教えに向かって、挑戦を続けなければならない存在なのです。
その難しさの極みが、本日の「腹を立てるな」という教えかもしれません。「そんなの無理」と初めから決めてかからず、これを私たちにお教えになったイエス様のお気持ちを考えながら、聖書に聞いてまいりましょう。
本日読みました箇所の「腹を立てる」という言葉を新約聖書のギリシャ語で見てみますと、「満ちたれる」という言葉が出てきます。
「満ちたれる」。具体的に考えてみると、教会の仲間に対して、満ちたれることを望むことです。満ち足りた集まりになるのは良いことかもしれませんが、そのために、誰かに向かって「ねえ、もっとできないの」と言い始め、「なんで、できないの」とイライラする状態に変わってしまう。これがすでに腹を立てている、という状態だと言うのです。
人の欠けたところ、足りないところを指摘して改善してあげたいと思う時、実は自分が満ち足りたい、つまり満足したいために指摘して、それが達成できないのでさらにイライラすることが多いのです。子育て中の親御さんなどによく言われることですが、この構図は教会の中でもぴったり当てはまります。
もちろんこれは何でもかんでも好き勝手にやらせて注意もせず、放置しておけばいい、という意味ではありません。互いに過ちを犯したら適切にブレーキをかけ合う工夫は必要なのです。ここが難しいところです。
イエス様の言われるのは、自分の理想を押し付けたり、自分の考えが最高で相手の意見は愚かだと決めつけて、勝手にイライラすることを改めないなら、あなたのクリスチャンとしての成長はありません、ということなのです。
そもそも「ばか」とか「愚か者」と言われて嬉しい人などこの世にはいません。だからこそ「ばか」と言うものは「最高法院」に引き渡され、「愚か者」と言うものは、火の地獄に投げ込まれるといわれるのです。
現代の私たちは小さい頃から道徳教育を受け、「お友達にバカと言ってはいけませんよ」などと教わります。欠点を補い合うことや、知的に障害がある方達の人権を保障しなければならないことも知っています。それでも知っているだけで、なかなか身につかないものです。
ましてやイエス様が活動しておられた時代は今から2000年前の古代社会です。身分の高い人が自分の使用人や奴隷に対して、気分次第で「ばか」とか「愚か者」と怒鳴るのはごく当たり前のことだったでしょうし、仕事場で先輩が後輩に偉そうに振る舞うのも普通の事だったでしょう。
身体障害者は神様に呪われた存在として偏見の目に晒されましたし、知的障害を持った人々を面と向かって侮蔑の言葉で呼ぶなど、普通のことだったはずです。
こんな状態の社会だったからこそ、イエス様はご自分の弟子たちに、どんな人にも人として守られるべき尊厳があることを厳しい言葉で一から教える必要があったのです。
イエス様は、神様の喜ばれる教会というものは、社会的立場や生育歴、受けてきた教育のレベル、個人的な頭の良し悪し、障害と呼ばれるもののあるなし、そう言った要素の一つ一つが異なる人々が集まって形成していくものであり、互いの違いを受け入れ合うことで、より豊かになっていくとご存知だったからです。
本日の第二の日課、第一コリントの中には、「硬い食物」という言葉が出てきました。困難な教えに挑戦していくことが「硬い食物」を咀嚼(そしゃく)することなのです。自分にとってできそうもない教えだからと無視し続けるなら、いつまでもお乳を飲み、離乳食を食べている赤ちゃんのようなクリスチャン、ということになります。
教会において、思いもかけない人々と出会い、以前の自分では考えられなかった価値観に目覚めていくことがあります。そこにキリスト者としての醍醐味があります。いたずらに腹を立て、相手を拒絶することは、それら全てを台無しにします。感情に振り回されて必要以上に怒ることは人生の時間の浪費に他なりません。イエス様はあなたや私が憎しみや怒りに捉われて、一生をイライラと過ごすことを望まれるわけがないのです。
そして最後に一つだけ。人生の中で、不条理なことが起こった時、私たちは神様その方に腹をたてることもあります。神様が私を愛しておられるのなら、なんでこうなるのかと怒りをぶつけたくなるかもしれません。しかし苦難の中にあっても、本当にとことん自分は神様に愛されている、そう思い出すなら、人は苦しみの中にも喜びを見つけることができます。そのように作られているのです。
怒りがどうしても抑えられず、心の整理がつかないときには、直接神様に申し上げましょう。決して綺麗な言葉でなくて良いのです。それが祈りになります。神様は必ず耳を傾けてくださいます。
この世の人々からは呑気な楽観主義者と馬鹿にされても、この生き方を選びとっていきましょう。
教会の隣の空き地に小さなオレンジ色の花が咲いています
「冬知らず(カレンデュラ)」というそうです
妙に暖かくて調子の狂う冬でも
元気に咲いています
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