ヨハネによる福音書第7章37節-39節、2017年6月4日(聖霊降臨際礼拝―赤―)、ヨエル書第3章1節-5節、使徒言行録第2章1節-21節、讃美唱104(詩編第104編24節-35節)
説教「神のみわざを語りだす弟子たち」(使徒言行録第2章1節~21節)
今日の礼拝を、ペンテコステの礼拝といいます。50日目の日の礼拝という意味です。ちょうど、今年のイースターが4月16日ですから、その日から数えて、今日6月4日が50日目に当たります。主イエスが復活させられたのが、イースターであり、過ぎ越しの祭りにおいてでありました。
そして、復活の主は、弟子たちに現れ、使徒言行録によると、その後40日間、弟子たちと共に飲食をなさりながら、天に上げられる前に、父の約束されたものを、エルサレムにおいて待つようにとお命じになられました。そして、50番目のその日が満たされたのであります。
それは、いみじくも、ユダヤ人たちにとっての七週の祭りに当たる日であり、五旬祭ともいわれる三大祭の一つに当たる、ユダヤ人たちにとっての集会の日でありました。当時のユダヤ人の成年男子は、過ぎ越しの祭りと、この日の五旬祭と、秋の仮庵の祭りの、年に少なくとも三回はエルサレムの神殿に詣でるべきこととなっていたのであります。この五旬祭は、他の二つに比べれば、地味な祭りであったようであります。
イスラエルの民が、エジプトから、出エジプトの後に、カナンの地に戻り、農耕生活にいそしむようになって、最初は新穀の感謝、小麦の初束をささげる収穫感謝の祭りでありましたが、この時代には、他の二つの祭り同様に、出エジプトを記念する祭りの意味合いが濃くなり、特にシナイ山での十戒、律法を与えられたことを記念する祭りとして定着していたようであります。
そういうわけで、この祭りのために、信心深いユダヤ人たち、またそのユダヤ教への改宗者たちが、地中海世界の方々から、また、東はチグリス・ユーフラテス川流域や、エジプト、カスピ海、黒海周辺、クレタ島からアラビアまで、さらには、ローマからも、エルサレムの都に戻り、滞在していたのであります。
さて、この日に弟子たちは、一つどころに集まり、同じ一つ思いとなって祈っていたのであります。少し前の記事を読むと、二回座敷に集まり、120人ほどの者が、主イエスの母マリアも含めて祈っていたとありますが、今日の記事の者たちが、同じ者たちで、同じ場所であったのかは定かでありません。
12人の使徒たちであったのか、ガリラヤからのもっと大勢であったのか。とにかく、その日、その家じゅうを、天から強い風が吹き付けるような音がして、今度は、家の中に座っていた者たちの上に、火のような舌のかたちをした聖霊が一人一人の上にくだってきて、とどまったのであります。そして、そのガリラヤからの主イエスの弟子たちは、聖霊に満たされて、おのおの違った言語の言葉で語りだしていたのであります。それは、異言を語るという場合に使われる言葉が使われています。
さて、それを聞きつけた、エルサレムに滞在していた、世界中から集まっていたユダヤ人や改宗者たちがやって来て、自分たちの生まれ育った国の言語で、主イエスの弟子たちが、神のみわざを語りだしているのを見て、度を失して驚き怪しむのです。その出来事は、家で起こったとありますが、あるいは神殿でのことであったのでしょうか。そして、そこで見られた表象は何を意味していたのでしょうか。世界中から集められていたユダヤ人たちは、これは一体何なのかと戸惑い、ある者たちは、彼らは甘い新酒に酔っているのだとあざ笑うしかなかったのです。
その時、ペトロが、11人と共に立ち上がって、復活の主イエスと出会って後初めての説教を語りだします。ユダヤの人たち、知っていただきたいことがあります。あなた方が見聞きしているのは、預言者ヨエルが預言していたことなのですと。終わりの日々に、-神は言われるー私は私の霊からすべての肉に向かって、それを降り注ぐ。そうすると、あなた方の息子、娘は預言し、あなた方の若者は幻を見、あなた方の内の老人は夢を見る。私のしもべ、しもめにも、その日々には、私の霊から、降り注ぐと彼らも預言するだろう。上で、天において前兆を、下で地の上ではしるし、証拠を、私は与えよう、血と火とたちこめる煙を。太陽は闇へと変えられよう、月は血へと、大いなる輝かしい主の日が来る前に。しかし、主の名を呼び求める人はみな救われるであろうと預言がここに実現しているのですと、ペトロは新しい時代を、ここに宣言しているのであります。
ペンテコステのこの日の出来事は、キリストの時代から、教会の時代へと新しい時代が始まったことを記しています。聖霊がくだり、聖霊に満たされるとは、預言の言葉が与えられ、神のみ言葉を、弟子たちが語りだせるようになったということです。それは又、復活の主のみ名を呼び求める者は皆救われる時となったのです。そして、そのみ名の他に、この地上には救いは与えられていないのであります。主イエスと共にやって来ていたガリラヤの弟子たちの語る言葉は、バベルの塔の出来事の時に人々の言葉が互いに通わなくなったのとは正反対に、すべての国の人たちに分かる救いの言葉であったのであります。ヨエルの預言の言葉は、直接にはいなごによるユダの国の飢饉、危機に際しての、しかし、祝福と救いの約束を伴った、黙示録的な警告の預言であったといいます。しかし、弟子たちは、そこに主イエスの聖霊降臨の約束の成就を見てとることができたのであります。アーメン。
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