マタイによる福音書第7章15節-29節、2017年6月25日(聖霊降臨後第3主日礼拝―緑―)、申命記第11章18節-28節、ローマの信徒への手紙第1章8節-17節、讃美唱4(詩編第4編2節-9節)
説教「み言葉に生きる人に」(マタイ福音書第7章15節-29節)
いよいよ今日の福音書の日課は、マタイ福音書の山上の説教の終わりの部分が与えられています。ここで、主イエスは、あなた方は偽預言者たちに警戒しなさいと語っておられます。そして、彼らは、羊の装いでやって来るが、内側は貪欲な狼、飢え切った者たちであり、あなたたちの命を踏みにじるためにやって来る者であると言われます。
これは、外部からくる迫害者たちではありません。私たちと同じ、教会の中で、私たちの良き指導者たち、説教者たちと同じように、主のみ名において預言をし、神の言葉を語り、悪霊を追い出し、数々の力ある業、奇跡をなす者としてやって来るのであります。しかし、彼らは、まことの福音を伝える者ではありません。彼らは、私たちに対して、何も信仰を持っても変わっていないので、まことの信仰ではないと反対します。そして、よく目につく、華々しいことを行い、私たちを惑わすのであります
。しかし、主は、良い木は悪い実をもたらすことができず、悪い木は良い実を生むことはできない。あなた方はその実から、彼らを見分けることができる、その真偽を見定めることができると言われます。
宗教改革の時代、マルティン・ルターは、修行による修道僧や修道女、聖人たちの行いによって、一般の者たちも免罪符、贖宥券等によって救われることに反対すると共に、熱狂主義者たちの行き過ぎたやり方にも反対しました。
彼らは、主よ、主よとみ名を呼ばわり、変わったやり方で、礼拝をしたり、人々の目を奪うような目立ったふるまいによって、人々を動かしていたのであります。しかし、ルターは、彼らは決して良い実を結ぶ者ではないと、その実から注意して、あなた方は見分けるようにと促したのであります。こうして、山上の説教において、主は、最後に、私の言葉を聞いて行う者は、岩に向かってその基礎を置いて、家を建てた人と似た者とされるであろうし、逆に、そうしない人は、砂に向かって礎を置き、家を建てた人に似るであろうと言われ、両者は終わりの日にまったく違った二者に分けられるだろうと警告なさっておられるのであります。そして、これらの山上の説教のお言葉を完成させられたとき、これを聞いていた群衆は、正気を失っていた。なぜなら、主は律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えておられたからであると、マタイは、この部分を総括し、閉じているのであります。アーメン。
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