マタイによる福音書第6章24節-34節、2017年6月18日(聖霊降臨際後第2主日礼拝―緑―)、イザヤ書第49章13節-18節、コリントの信徒への手紙一第4章1節-13節、讃美唱92(詩編第92編2節-10節)
説教「思い煩いは神にゆだねる」(マタイによる福音書第6章24節~34節)
教会暦の上での大切な、四旬節、受苦日、復活祭、復活節、聖霊降臨祭を過ぎて、今日から再び、聖霊降臨後の季節に入りました。
今日は、「思い患いを神にゆだねる」と説教題を付けておきましたが、正しくは「思い煩う」と書くべきでしょう。しかし、思いわずらうことは、ある意味で病であり、その意味では間違った題ではないと改めて思うのであります。
私の母がまだ洗礼を受ける前に、私が高校のころでありますが、この主イエスのみ言葉を読んで、この言葉だけはその通りだなと思うと、私に語ってくれたことを思い出だします。
今日の個所は、新共同訳では、マタイ福音書第6章の24節と25節の間には1行あけてあって、25節から34節までが、一つの段落となっているのですが、私どもの聖書日課、ペリコペーでは、24節から34節までが、一つもまとまりとして続けて読むように、伝統的な区分に従っているのであります。
さらに言えば、この分け方は、第6章の19節からの流れに沿って読まれるべきことを指示しているように思います。天にあなたの宝を積め、あなたの宝のある所にあなたの心もある。あるいは、あなたの心の目は澄んでいるのか。そして、そこに、あなた方は二人の主人にかね仕えることはできない。そして、あなた方は富、マモンと神とに、かね仕えることはできない、と主は言われ、そして、そのあとに、今日の何度も繰り返される「思い悩むな、思いわずらうな」という言葉が出てくるのであります。
主は、悪魔的で人格的な力を持つ、富、マモンなるものと、神とにかね仕えるべきではないと言われるのではなく、かね仕えることはできないと断言されているのであります。そして、それだから、あなた方は命のことで何を食べ、何を飲み、体のことで何を着ようかと思い煩ってはならないと言われる。
神に仕え、従っていくために、思い煩いから解かれて、また、空の鳥、天の鳥や野の花のように、すべてを神の守りにゆだねて、なすべきことをなしていくようにと言われます。思い煩わないで、生きてゆくことができると、主は、私どもの日々の労苦を十分にご存知の上で、また、御自分はそのような、思い煩い、日々の悪、人生の苦難をその身に、私どものために代わって引き受けられながら、しかし、あなた方は、その日々の思い患いから、解かれて生きてゆけると、ここに約束なさっておられるのです。そのために、どうすればよいのか。主は、まず第1に神の国と彼の義を求めなさい。そうすれば、あなた方に必要な者は添えて与えられようと言われます。神は、私どもが祈るよりも先に、私どもに必要なものが何であるかをご存じであると言われます。
そして、旧約の詩人も、自分は、主に従う人が、他人にパンを乞い求め、さらには、その子孫までもがそうするのをいまだかつて見たことがないと証言しています。
マモンに決別し、神にのみ仕えていくとき、日々、耐えられないような労苦、災厄に遭うということもありましょうが、神がそこにも支配しておられるのですから、一日一日を神のご支配にゆだねて、その一日を精一杯生きてゆくことができる。その主の言葉に励まされて、私どもは、思い煩いから解き放たれた、キリスト者の歩みをさせていただきましょう。アーメン。
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