ようこそ!飯田ルーテル教会は、プロテスタント・キリスト教会「日本福音ルーテル教会」に属する教会です。飯田で教会と幼稚園を運営して、皆様のために奉仕しています。ルーテル教会は世界中に広がる安心できる伝統的教会です。
2025年11月11日火曜日
2025年11月9日日曜日
聖霊降臨後第22主日礼拝(2025年11月9日)(緑)
詩編17編1―9節(旧)
Ⅱテサロニケの信徒への手紙2章1―5節、13―17節(新381)
ルカによる福音書 20章27―38節(新150)
説教「神の愛と赦しの中」 朝比奈晴朗
本日福音書にはサドカイ派という人々が登場し、イエス様に論争を挑みます。イエス様とやりあうといえばファリサイ派が思い浮かびますが、サドカイ派はファリサイ派とは立場も考え方も違います。
ファリサイ派は律法を守って生きることを何より大切にし、それが神様に喜ばれることであると信じ、一般民衆にもそれを求めました。律法の教師として、また政治家として、社会に強い影響を与えていました。いわば歩くルールブックのような人々です。
一方ここに登場するサドカイ派というのは、貴族階級で先祖代々神殿に仕える人々でした。大祭司はこのサドカイ派から選ばれました。
ファリサイ派とサドカイ派の大きな違いは、ファリサイ派は天国や復活を信じていましたが、サドカイ派は死者の復活や死後の世界は信じなかった、ということです。
復活についての考え方は、聖書学者たちの長年の研究のうちに「神様の御心」として理解され、定着したものでした。しかしサドカイ派は「神殿があればそれで良い」と考え、「モーセ五書」と言われる旧約聖書の冒頭にある5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを信じ、聖書全体を掘り下げて学ぶことをせず、単純に「モーセ五書に書かれていない」という理由で復活を否定したのです。
しかしイエス様は多くの人々に神様や天国の話をされ、人々の心を捉えていました。その中には神殿にろくに献金できない貧しい人々や罪人と呼ばれる人々も含まれていました。裕福ななサドカイ派の人々にとって貧乏人は目障りな存在でしたから、イエス様の動きそのものが目障りだったのでしょう。
そこでユダヤ民族が大切にしてきた律法の中からレビラト婚という掟を持ち出し、論争を挑んだのです。この掟は、子どもがいないまま夫が死亡した場合、その妻が死んだ夫の兄弟と結婚し、血を絶やさないようにする、という決まりです。しかし彼らがたとえとして出したのは、7人兄弟全ての妻となるというような非現実的なケースです。死者が本当に復活したら困ったことになるだろう?というような、極端な例を出したのです。
復活も天国も信じず、貧しい人々を顧みることもなく、神様の思いそっちのけで神殿でただ誇らしげに振る舞い、かと言って清廉潔白ではなく保身のためならローマとも手を組む。そんな彼らに悔い改めを求めるために、イエス様はこの滑稽な問答にあえて付き合ってくださったのでしょう。
イエス様は、サドカイ派がモーセ五書しか信じないことを知っておられました。とはいえ深く研究しているわけでもないと知っておられました。ですから、ズバリ「死者が復活することはモーセ五書の中にも書かれている」と指摘することで無益な論争を終わらせたのです。
この復活についての問答は、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカに福音書にも記されています。ただその結末の言葉がそれぞれ違っていて、マルコは「あなたたちは大変な思い違いをしている」、マタイは「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた」そしてルカは「そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」とあります。
これはそれぞれの福音書が書かれた時代を反映していると言われています。福音書は一斉に書かれたわけではなく、イエス様が天に帰られた後、おおよそ100年間にわたって別々に書き記されたとの研究があります。この100年の間に、イスラエルも、その首都エルサレムも大きく変化していきます。
簡単に申しますと、イエス様の活躍した時代から30年ほどたちますとローマ帝国との戦いが起こり、エルサレム神殿は陥落、ユダヤの民は国を追われてしまいます。そして、神殿の消滅と共にサドカイ派が滅びてしまったのです。
神殿もなくし、復活信仰もない彼らは、自分達の存在意味を失ったのでしょう。一方律法の学びと教えを中心としていたファリサイ派は苦難の中を生き延び、ユダヤ教の正統派として現在も存在しています。
神殿とサドカイ派が滅びたことは当時のユダヤ人たちに強いメッセージとして響いたことでしょう。どれほど立派な神殿があっても神様の愛や赦しは伝わらないのだ、では私たちは何を重んじるべきか、と考えた結果、福音書には著者それぞれの書き方で記されたと考えられます。
さて、イエス様の時代から2000年が過ぎ、その間にキリスト教の礼拝もさまざまに変化していきました。神様の愛や招き、赦しをより多くの人々に伝えようとして、儀式やしきたりを重んじ過ぎた時もありましたし、学問偏重主義に走ったこともありました。今も何が正解かわからないままに様々な形のキリスト教の礼拝の形が存在しています。
私たちルーテル教会も典礼主義という側面を持っています。「歌う教会」と言われたこともあり、先々週の宗教改革記念礼拝では、中島先生が考案した式文を用いて礼拝に預かりました。
しかし高齢化に伴い、連続して歌うことに困難を覚える教会もあり、同じルーテル教会でもほとんど式文は使わない教会もあります。ルーテル以外では、牧師が聖書の解釈に心血を注ぎ、信徒に分け与えることを重んじる教会もあります。
おそらくどの形も絶対ではなく、集まる人によって変化することは、神様の愛と赦しの中で認められています。私たちはまず第一に福音をどう伝えていくのか考え続けましょう。もし赦された心と愛の心があるなら、必ずこの場所が、神様の存在を感じられる場所として、多くの人が集って来るのを、私たちは見ることになるでしょう。
昨日8日(土)は幼稚園と教会のために
チャリティコンサートが行われました
歌ってくださったのはタテタカコさん
地元飯田出身のミュージシャンです
ルーテル飯田幼稚園の卒園ということで
名古屋のキリスト教者会館の方に繋いでいただき
この度実現しました
諸般の事情でライブ中の写真は掲載できないのが残念です(><)
せめて牧師がレゴブロックでPRのために作った
ライブのイメージ作品と、当日のポスターをご覧ください
タテさんのオフィシャルFBには礼拝堂で歌ってらっしゃる
写真が1枚掲載されていますので
よければご覧ください(教会のFBにもシェアさせていただきました)
お近くの皆さま、どうぞお越しください
2025年11月2日日曜日
「恵みの相続」(日曜日のお話の要約)
全聖徒主日・聖餐礼拝(2025年11月2日)(緑)
詩編149編1―9節(旧989)
エフェソの信徒への手紙1章11―23節(新352)
ルカによる福音書 19章1―10節(新146)
本日の福音書は「ザアカイ」さんのお話です。聖書絵本や紙芝居として小さな子供にも親しまれているエピソードです。ザアカイという名前は「清い人」とか「正しい人」という意味です。体が小さい彼は、からかわれたりいじめられたりすることもあったでしょう。周りを見返すには金持ちになることだ、と考え、イスラエルを支配しているローマ帝国の手先になることを選びました。ローマが発展していくための税金をイスラエルの同胞から徴収する仕事についたのです。
彼がもしローマの目を誤魔化して同胞から安く徴収する裁量を持ち合わせていれば、仲間は彼を慕ったでしょう。しかしそれがバレて仕舞えば仕事をはく奪され、酷い目に遭わされます。ですからそうならないようにローマに媚び、ローマの後ろ盾があるのを良いことに、同胞から不当に高く取り立て金儲けをしたのです。そして当然ながら同胞から嫌われていきました。
それはザアカイだけではなく徴税人は大抵そんなふうでしたから、当時は「徴税人」といえば神様に嫌われた罪人、死んだら地獄に落ちるしかない大悪党、と言われるようになります。それでも周囲から嫌われようが、地獄行きだと罵られようが、徴税人になろうとするユダヤ人が後をたたなかったのは、ただ真面目に働いても貧困からは抜け出せないほどに社会全体が貧しかったからです。
しかし、人間関係も信仰もそっちのけで経済的に豊かになることだけを求める生き方では、人は決して満たされず、幸せになれないことを神様はご存知でした。そんな人々に救いをもたらすため、イエス様を送られたのです。
イエス様は誠実にその役目を果たされ、社会からはみ出した人々にも愛を注がれました。エリコの町の徴税人であるザアカイも、そうやってイエス様に見出された一人だったのです。
ザアカイは人付き合いをせず、他人に心を閉ざしていましたが、この日に限ってはどうしてもイエス様に会いたくなり、周りから奇異な目で見られることも構わず、いちじく桑の木に登ります。日頃は決してそんなことをしない彼が突拍子もない行動に出た、そこに、すでに神様の招きがあったのです。
イエス様はザアカイが木の上からご自分を見ることをあらかじめご存知でした。そしてザアカイがご自分の頼みを決して断らないことを見抜いておられたように「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。
ザアカイの家には、イエス様一行が入れるスペースが十分あり、客をもてなす設備も備えられていました。ここにザアカイの矛盾した心が見えます。客人を招き入れる広いスペースをわざわざ作っておきながら、それまで決して人々を招こうとはしなかったのです。
町の人々は、もちろん一度もザアカイの家にはいったことはありません。イエス様一行が招かれていく姿を見て何を感じたでしょうか。彼らは呆気に取られつつも、自分がザアカイにした仕打ちを思ったでしょう。ザアカイがイエス様を見ることができないように、わざと遮った自分達の心の狭さに気付いたでしょうか。ほんの少しでも「ザアカイに悪いことしたなあ」と思ったならば、その心をイエス様はお喜びになり、彼らとザアカイとの関係も変わったかもしれません。
もちろん、ザアカイ自身も悔い改める必要がありました。しかし、彼はすでにイエス様との出会いによって、その切っ掛けを手に入れていました。イエス様の前に悔い改め「今まで騙し取ったものを四倍にして返し、築き上げた財産の半分を貧しい人に施します」と宣言します。彼はその名前の通り、「正しい人」として新しい人生を踏み出したのです。
興味深いことに、ザアカイは「徴税人をやめる」とは言いませんでした。イスラエルがローマに支配されている以上、ザアカイが徴税人を辞めても次の徴税人がやってきて、好き勝手に税を取り立てることでしょう。それではだめだ、とザアカイは思ったのかもしれません。彼は徴税人としてローマからの信頼を得ていました。ですから、あえて徴税人を続け、正しい税金だけを取り立てることでこの町を不正から守ろうとしたのです。
訪れる客もいない豪華な客間で一人ぼっちで富に囲まれ、町の人々から嫌われていたザアカイはもういません。イエス様がザアカイの心に働きかけてくださったので、彼の持つ富は困窮している多くの人に分かち与えられました。そしてザアカイの孤独も癒やされたのです。
さて、ザアカイがイエス様に会いたいという衝動を抑えきれずに木登りをしたように、私たちの人生の中にも「これはイエス様の招きではないだろうか」と強い思いを抱くことがあるはずです。そのチャンスを逃さないでイエス様に出会うことを願う時こそ、私たちが変わる瞬間かもしれません。イエス様の声に素直に従う人は、人生をもう一度やり直して、恵み豊かな神の国を作り上げることが出来るのです。イエス様がこの世においてなさりたいと思っておられたことを引き継ぐとき、ザアカイのように「恵みの相続人」となることができるのです。
もちろん、神様の思いを相続することは簡単ではなく、周りの無理解に苦しむことがありますし、大変な困難が生じることもあります。それでも、人生のどこかのタイミングでイエス様と出会い、この社会、この地域、この場所を、より良い場所にしたい、というイエス様の願いを引き継ぐことは私たちの人生を輝かせてくれるのです。
報告が前後しましたが、10月25日は土曜学校でした
珍しく少ない人数での実施となりましたが
充実した時間を過ごすことができました
完成した作品を掲げての誇らしげな笑顔を
ご覧ください
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2025年10月26日日曜日
宗教改革記念 幼稚園新築&教会改築 感謝礼拝
宗教改革記念 飯田ルーテル幼稚園新築&ルーテル飯田教会改築
2025年10月19日日曜日
「祈りに生きる」(日曜日のお話の要約)
聖霊降臨後第19主日礼拝(2025年10月19日)(緑)
創世記32章23―32節(旧56)
Ⅱテモテの手紙3章14―4章5節(新394)
ルカによる福音書 18章1―8節(新143)
本日の福音書のたとえ話は、イエス様がご自分の弟子たちに向かって「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と前置きしてお教えになった譬え話です。しかし、このお話は、すんなりと分かるお話ではありません。
この話は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が「社会的立場の弱いやもめを救う」内容です。結論だけに注目すると、未亡人は願いを聞き入れられ、助かったのだから「良い話」とも言えます。しかしこれは「悪い奴もたまには良いことをする」といった人情噺ではなく、祈りについてのお話です。
この時、イエス様はエルサレムに向かって旅をしている途中でした。今までも祭りに参加するためエルサレムに行かれたことはありましたが、今回はただの巡礼の旅ではありません。十字架にかかるために旅をしておられるのです。
私たちは時折、勘違いすることがあります。イエス様は神様で死んでも復活できるのだから、十字架なんか少しも怖くはないのだ、と思ってしまうのです。しかしイエス様はマリアから肉体を受けて人となって生まれたことで、福音書にあるように、疲れたとかお腹がすいたとか、喉が渇いたとか眠いとか、人間が味わう辛さを一つ一つ経験して来られました。ですから福音書にはありませんが、怪我をしたら痛いとか、熱が出たら辛いとか、そういった経験もされたはずです。それは神様の御子なら本来は経験する必要のなかった痛みでした。
しかしあえてそれを経験されたイエス様は、これから後、ご自分が十字架で死なれる時の壮絶な苦しみを予想することができました。だからこそ十字架にかかる前の夜、ゲツセマネで神様に祈られ、この苦しみから逃れたいと思っていることを告白されたのです。
一方弟子たちは身勝手にも、そのようなイエス様の苦しみを知りません。イエス様から「私は十字架にかかる」と聞かされても、なんのことやら、イエス様は王様になるんだ、と信じて疑わず、意気揚々とエルサレムを目指していました。そんな弟子たちの態度はさらにイエス様を苦しめ孤独に陥らせたことでしょう。
さて、お話を福音書に戻しましょう。不正な裁判官のところに現れたやもめは、この裁判官に断られれば後がありませんから、死に物狂いで、脇目も振らずにお願いし続けました。それはもう、常識はずれなほどの熱心さとしつこさで頼み続けたのです。根負けした裁判官は、ついにやもめのために裁判をすることに決めます。しかしそれはやもめの境遇に同情したからでは決してありません。追い払っても追い払っても付きまとってくる彼女を黙らせるには、助けてやるしかない、と諦めたのです。彼はどこまで行っても不正な裁判官だったからです。
こういう具体的な事柄と人物像を描き出した後、イエス様はおっしゃいました。「不正な裁判官でも、つきまとってくるものの必死さに根負けして助けの手を差し伸べるのだ。まして神様は、助けを求めるご自分の民の声をいつまでも無視したり放っておくようなことはあり得ない。」
ここに登場するやもめは、初めのうちは自分を助けてもらう手段をあれこれ考え、友人や親戚に頼んだかもしれません。しかし結局、自分を助けることができるのは、不正な裁判官一人だと信じた時、他人まかせにしないで自ら出かけていき、脇目も振らずに自分の願いを言葉にして伝え続けました。
彼女のように、自分の願いを自分の言葉で祈る、進んで祈ることは、神様に必ず届くのです。この姿勢、この態度を放棄しては何一つ得ることができないのです。
本日読んでいただいた旧約聖書では、イスラエルの先祖の一人であるヤコブが神様の使いと格闘をします。これは信仰の証としてよく取り上げられます。自分の願いを神様に申し上げておきながら、一方で「こんなことは叶えられない」という強い不信仰が湧き上がってくる時、ヤコブがやったように無心になって主の使いと格闘し、自分の不信仰をねじ伏せる、という意味で証されることが多い箇所です。
小さなお前が祈っても何の変化もないだろう、と周りから揶揄われたり馬鹿にされたりするかもしれません。しかしそれに惑わされてはいけないのです。
神様の御心は、自動販売機にコインを入れてボタンを押したら望んだ商品がガチャンと出てくる、というような安易なものではなく、もっと大きな視点からあなたの祈りの言葉を叶えるために計画をしてくださるのです。人の目には何も変わっていないように見えても、神様はすでに働いておられます。ただそれを信じ抜くのに、信仰が必要なのです。
イエス様はその信仰を持った人を地上に見出したいと願っておられます。わたしたちに与えられた祈りの言葉は、この世に神の意図つまりは思いと計画を伝えることでもあるのです。辛くても、どれだけ待たされても、神様を信じ続け、祈りの奉仕をやめてはならないのです。
私たちのルーテル教会は最初のプロテスタント教会として、誰でも自分の言葉で祈れる教会として歩み出しました。キリスト教の信仰の中心は祈りであり、イエス様を知るものの祈りは、御心に叶う祈りであり、召し出された者が祈ることは基本中の基本であることを信じましょう。
私たちは神様と会話するように、熱心に、諦めることなく、どんな時も祈りの生活をいたしましょう。神が祈る者として召し出して下さった。臆することなく、祈りを自分の言葉にして、捧げて参りましょう。神様は必ず祈りを聞いてくださるのです。
昨日は幼稚園の「芋掘り遠足」という行事に牧師が参加したため
土曜学校は第4週、25日に実施いたします
毎月変わってしまって申し訳ありません
連絡希望の皆様のお手元にご案内は届いたでしょうか?
どうぞお越しください
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| 今回の土曜学校は紙皿を使って 秋らしいリースを作ります アナベルのドライフラワーも たっぷり使ってもらえるよう準備中です(^^) |
2025年10月12日日曜日
「感謝の心」(日曜日のお話の要約)
聖霊降臨後第18主日礼拝(2025年10月12日)(緑)
列王記下5章1―3節、7―15節(旧583)
Ⅱテモテの手紙2章8―15節(新392)
ルカによる福音書 17章11―19節(新142)
本日の福音書では「ガリラヤとサマリアの間に『ある村』があった」と記されています。そこには重い皮膚病の人たちが集められていました。この病を発病すると家族と共に生活することは許されず、病人だけを集めた場所で暮らさなければならなかったのです。それは旧約聖書の時代からずっと続いていて、律法にも記されている決まりでした。
皆様もご存知のようにユダヤ人とサマリア人は歴史上のいざこざがあって、長年対立して来たのですが、ガリラヤとサマリアの間にあるこの村では文字通り同病愛憐むという状態で共存していました。
同じ病を持つ同士、苦しみを理解し、いたわり合い、争いやいがみ合いよりも、思いやりの心で解決することを選び取り、平和に穏やかに過ごすことをモット―とする。病の苦しみはあっても、人としては「ユートピア」ともいうべき世界を築いていたのです。それは健康で上昇志向の強い人間の集まりではなかなか築けない世界でしょう。
余談ですが、この「ユートピア」という言葉は、最近では「災害」とセットで語られることがあります。と言いますのも、災害が起こった時、共に窮地に陥った被災者同士が優しくなれることがあると、さまざまな被災地で確認されているからです。
しかし、イエス様は彼らの生み出したユートピアに一石を投じられます。本日登場する10人は遠くの方から「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げます。それは律法に定められた通り「私は汚れたものです」と大声で呼ばわっただけで、本気で癒やしていただけるとは思っていなかったかもしれません。
ただ、情報から遮断された彼らの耳にも、どこからかイエス様の奇跡の噂は届いていたのでしょう。「わたしたちを憐れんでください」という言葉には、形式だけではない、切実な期待が込められていたことでしょう。
イエス様は彼らのそんな複雑な気持ちを汲み取ってくださいました。ですからあえてそれ以上近づこうとはなさらず、遠くから彼らに向かって「祭司たちのところに行って、体をみせなさい」と言われたのです。祭司だけがこの病が完治したことを保証し、社会復帰させる権限を持つ、と律法に記されていたからです。
イエス様のお言葉を聞いた10人は、それを固く信じ、まだ癒しの兆候は見えなかったにも関わらず、出てはならないはずの村を出て祭司のところへ出かけます。すると、その途中で癒されたことに気づきます。まずはめでたしめでたしというところなのですが、実は大切なのはここからです。
祭司の元へ出かけた10人の内9人は、自分は癒されたことが分かったので、そのままイエス様の言葉通り神の代理人たる祭司の元へ急ぎました。何よりも社会復帰、イエス様へのお礼はその後でゆっくり、と考えたのでしょうか。それとも喜びで胸がいっぱいで、イエス様への感謝の思いが吹っ飛んでしまったのでしょうか。
しかし、1人だけ大声で神を賛美しながらイエスの元へ戻ってきた人物がいました。彼はサマリア人であった、と書かれています。
ここで少しだけ推論を挟みますと、サマリア人にはユダヤ人のような神殿はなく、病が癒されたことを権威を持って宣言してくれる祭司にも心当たりがなかったのかもしれません。しかし、だからイエス様のところへ戻って来たのかな、と思うのは、少しへそ曲がりな考え方かもしれません。
このサマリア人は、自分を癒してくださった方が神様そのものであると気づいたのです。その方はどんな民族も分け隔てず、憐れんでくださり、癒してくださり、救ってくださる方です。ですからもうどこかの神殿に走っていく必要はないのです。神の代理人のところへ行くのではなく、直接真の神様を賛美し、神様そのものであるイエス様の足元に平伏すことを何より優先したかったのだと思うのです。
イエス様はサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。イエス様は彼の信仰を受け止められました。そして彼がこれから歩んで行く道を祝福し、送り出されたのでした。この後サマリア人がどのような生涯を歩んだかは記されていませんが、イエス様を神と信じ、共に歩んだことを信じたいのです
ルーテル教会を含めて、多くの教会が使う礼拝式文の中に、礼拝の最後に司式者が「行きましょう。主の平和のうちに。」と語りかけ、会衆が「神の助けによって」と答える箇所があります。この時のイエス様のお言葉はこの一言を思い起こさせます。
私たち日本人は、誰かと宗教の話になった時、「なんでわざわざキリスト教という西洋の宗教を信じるのか」と怪訝な顔をされることがあります。最近では「キリスト教は争いを続けるユダヤ教から出た宗教でしょう?」と嫌な顔をされることすらあって、伝道や宣教の難しさに直面することがあります。
しかし、一番大切なことは、自分自身がイエス様を通して、唯一、まことの神を信じられるように招かれていることです。苦難にある時も罪人に定められる時も、イエス様はそばにおられ、救ってくだり、癒してくださり、地上の生涯がどれほど辛い終わり方をしようとも、神の国に招いてくださることを絶対変わらぬ約束として結んでくださった、これが真理であり、私の信仰、私たちの信仰なのです。
複雑な時代、誰もが困難や苦しみを抱えています。だからこそ共に癒され、共に贖われ、共に真の神イエス様に礼拝することを喜び、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と喜び合う、その精神を忘れず、共に宣教していく道、伝道していく道を歩んで参りましょう。
10月10日午後1時から牧師館の茶室で
ミニ茶会を行いました
牧師は初心者、牧師夫人は初心者ですらない未経験者(笑)
しかも牧師夫人はひさ関節を痛めていて正座ができず
今はそういう方も多いので
教会から古い幼稚園椅子を運んできました
教会員の田口さん(和服の女性)と
そのお弟子さんが2人来てくださり
その都度、所作や道具について解説してくださり
2時間ほどはあっという間にすぎました
参加者随時募集中です!
興味のある方はぜひご連絡ください
| 床の間とか掛け軸とか 次回はちゃんと撮ります(^^;) |
| 田口さんのお弟子さん |
| 皆様、ありがとうございました |









