聖霊降臨後第18主日礼拝(2025年10月12日)(緑)
列王記下5章1―3節、7―15節(旧583)
Ⅱテモテの手紙2章8―15節(新392)
ルカによる福音書 17章11―19節(新142)
本日の福音書では「ガリラヤとサマリアの間に『ある村』があった」と記されています。そこには重い皮膚病の人たちが集められていました。この病を発病すると家族と共に生活することは許されず、病人だけを集めた場所で暮らさなければならなかったのです。それは旧約聖書の時代からずっと続いていて、律法にも記されている決まりでした。
皆様もご存知のようにユダヤ人とサマリア人は歴史上のいざこざがあって、長年対立して来たのですが、ガリラヤとサマリアの間にあるこの村では文字通り同病愛憐むという状態で共存していました。
同じ病を持つ同士、苦しみを理解し、いたわり合い、争いやいがみ合いよりも、思いやりの心で解決することを選び取り、平和に穏やかに過ごすことをモット―とする。病の苦しみはあっても、人としては「ユートピア」ともいうべき世界を築いていたのです。それは健康で上昇志向の強い人間の集まりではなかなか築けない世界でしょう。
余談ですが、この「ユートピア」という言葉は、最近では「災害」とセットで語られることがあります。と言いますのも、災害が起こった時、共に窮地に陥った被災者同士が優しくなれることがあると、さまざまな被災地で確認されているからです。
しかし、イエス様は彼らの生み出したユートピアに一石を投じられます。本日登場する10人は遠くの方から「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げます。それは律法に定められた通り「私は汚れたものです」と大声で呼ばわっただけで、本気で癒やしていただけるとは思っていなかったかもしれません。
ただ、情報から遮断された彼らの耳にも、どこからかイエス様の奇跡の噂は届いていたのでしょう。「わたしたちを憐れんでください」という言葉には、形式だけではない、切実な期待が込められていたことでしょう。
イエス様は彼らのそんな複雑な気持ちを汲み取ってくださいました。ですからあえてそれ以上近づこうとはなさらず、遠くから彼らに向かって「祭司たちのところに行って、体をみせなさい」と言われたのです。祭司だけがこの病が完治したことを保証し、社会復帰させる権限を持つ、と律法に記されていたからです。
イエス様のお言葉を聞いた10人は、それを固く信じ、まだ癒しの兆候は見えなかったにも関わらず、出てはならないはずの村を出て祭司のところへ出かけます。すると、その途中で癒されたことに気づきます。まずはめでたしめでたしというところなのですが、実は大切なのはここからです。
祭司の元へ出かけた10人の内9人は、自分は癒されたことが分かったので、そのままイエス様の言葉通り神の代理人たる祭司の元へ急ぎました。何よりも社会復帰、イエス様へのお礼はその後でゆっくり、と考えたのでしょうか。それとも喜びで胸がいっぱいで、イエス様への感謝の思いが吹っ飛んでしまったのでしょうか。
しかし、1人だけ大声で神を賛美しながらイエスの元へ戻ってきた人物がいました。彼はサマリア人であった、と書かれています。
ここで少しだけ推論を挟みますと、サマリア人にはユダヤ人のような神殿はなく、病が癒されたことを権威を持って宣言してくれる祭司にも心当たりがなかったのかもしれません。しかし、だからイエス様のところへ戻って来たのかな、と思うのは、少しへそ曲がりな考え方かもしれません。
このサマリア人は、自分を癒してくださった方が神様そのものであると気づいたのです。その方はどんな民族も分け隔てず、憐れんでくださり、癒してくださり、救ってくださる方です。ですからもうどこかの神殿に走っていく必要はないのです。神の代理人のところへ行くのではなく、直接真の神様を賛美し、神様そのものであるイエス様の足元に平伏すことを何より優先したかったのだと思うのです。
イエス様はサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。イエス様は彼の信仰を受け止められました。そして彼がこれから歩んで行く道を祝福し、送り出されたのでした。この後サマリア人がどのような生涯を歩んだかは記されていませんが、イエス様を神と信じ、共に歩んだことを信じたいのです
ルーテル教会を含めて、多くの教会が使う礼拝式文の中に、礼拝の最後に司式者が「行きましょう。主の平和のうちに。」と語りかけ、会衆が「神の助けによって」と答える箇所があります。この時のイエス様のお言葉はこの一言を思い起こさせます。
私たち日本人は、誰かと宗教の話になった時、「なんでわざわざキリスト教という西洋の宗教を信じるのか」と怪訝な顔をされることがあります。最近では「キリスト教は争いを続けるユダヤ教から出た宗教でしょう?」と嫌な顔をされることすらあって、伝道や宣教の難しさに直面することがあります。
しかし、一番大切なことは、自分自身がイエス様を通して、唯一、まことの神を信じられるように招かれていることです。苦難にある時も罪人に定められる時も、イエス様はそばにおられ、救ってくだり、癒してくださり、地上の生涯がどれほど辛い終わり方をしようとも、神の国に招いてくださることを絶対変わらぬ約束として結んでくださった、これが真理であり、私の信仰、私たちの信仰なのです。
複雑な時代、誰もが困難や苦しみを抱えています。だからこそ共に癒され、共に贖われ、共に真の神イエス様に礼拝することを喜び、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と喜び合う、その精神を忘れず、共に宣教していく道、伝道していく道を歩んで参りましょう。
10月10日午後1時から牧師館の茶室で
ミニ茶会を行いました
牧師は初心者、牧師夫人は初心者ですらない未経験者(笑)
しかも牧師夫人はひさ関節を痛めていて正座ができず
今はそういう方も多いので
教会から古い幼稚園椅子を運んできました
教会員の田口さん(和服の女性)と
そのお弟子さんが2人来てくださり
その都度、所作や道具について解説してくださり
2時間ほどはあっという間にすぎました
参加者随時募集中です!
興味のある方はぜひご連絡ください
床の間とか掛け軸とか 次回はちゃんと撮ります(^^;) |
田口さんのお弟子さん |
皆様、ありがとうございました |
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