聖霊降臨後第18主日礼拝(2026年9月26日)(緑)
エゼキエル書 18:1-4&25-32 (旧1321) フィリピ 2:1~13 (新362)
マタイによる福音書21:23-32(新41)
教会では兄弟姉妹は共に仲良く過ごす姿が理想とされますから、教会員同士で争うのはおかしいと言われがちです。しかし人類最初の殺人事件は、兄が弟を殺します。創世記で、アダムとエバの息子であるカインは、弟のアベルが神様にエコひいきされていると思い込み、怒りのあまりアベルを殺してしまうのです。
いくらなんでもこんなことはあり得ない、と思うかもしれませんが、兄弟姉妹のいる方は、自分達の子ども時代を思い出してみると、むしろ近い関係だからこそ、喧嘩は日常茶飯事だったでしょう。もしかすると何かのきっかけで感情が暴走してしまえば、誰でもカインになってしまう可能性はあるのです。
さて、本日の福音書のイエス様のたとえ話にも兄弟が登場します。この出来事の少し前にイエス様は「神殿から商人を追い出す」という大胆な行動をとっておられます。当時の神殿では、商売人と祭司たちが裏で手を組んで、巡礼者から不当に利益を得ていました。それをイエス様は厳しく非難されたのです。しかしその行動の一方で、その場にいた障害者たちに惜しみなく癒しの業をなさったので、子どもたちまでイエス様を褒め称えました。
祭司長や長老達はそれが面白くなかったのでしょう。イエス様が神殿で人々に神様のお話をしておられるのを見かけて「あなたはなんの権威があって好き勝手なことばかりするのか」とばかり問い詰めたのです。
それに答えて、イエス様は初めに洗礼者ヨハネの話をされます。そして次にお話になったのが、本日ご一緒に考えてまいります「二人の息子のたとえ」なのです。
ある人にふたりの息子がいた。父は兄のところに行って「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と指示した。すると、兄は「いやです」と答えたが、あとで考えなおして、ぶどう園に出かけた。一方弟は「承知しました」といったものの、出かけなかった。イエス様が祭司長や長老たちに「ふたりのうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と尋ねると、彼らはあっさりと「兄の方です」と答えたのでした。
ちょっと余談ですが、聖書に親しんでいる方は、兄と弟の役割について「あれ?」と思われるかもしれません。有名な放蕩息子の話のように、兄は真面目で融通がきかず、弟は怠け者だったが悔い改めた、というイメージが定着しているからです。実際、以前の口語訳聖書では兄と弟の発言が入れ替わっていて、「調子の良い返事をしながら畑に行かなかった兄」と「後で思い直して畑に行った弟」という翻訳になっています。
これは元のギリシャ語の聖書に2種類の本文があることが原因ですが、イエス様が例え話によって主張なさっている意味に変わりはないので、あまりこだわらずに読み進めたいと思います。
ある注解書は、兄弟の行動について、次ように解釈していました。
父親はいつものように、まず最初に兄のところに行って、手伝いの相談をした。その仕事内容は、記されておらず、収穫の手伝いか、収穫後のブドウ畑の整理という地味な仕事か、兄が最初に「いやです」という手伝いだから、兄にとっては楽しい仕事ではないのだろう。
弟は兄のことを、「やらないといったら絶対やらないタイプ」と理解していた。だから父親が自分に頼みに来たのは、兄が断ったからだとピンとくる。ここで自分まで断ったら、父親はごり押しをしてくるに違いない。だから、自分も本当は行く気などさらさらないのだが、ひとまず「承知しました」と答えておいた。
兄は父親の様子を見ていて、すぐ弟のところから帰ってきたので、「ははあ、弟は調子のいい返事だけして行かない気だな」と予測した。
弟が行かなければ父が困るだろう、悪いことをしたな、そう思った兄は、思い直してぶどう園に手伝いに行った、という解釈です。
ですから、「お父さんが困るから行こう」と行動したのはどっちか、というのが大切で、兄でも弟でも構わないのです。父親はイエス様のたとえ話の定番通り「神様」を意味していますから、神様に悪いことをした、と罪を自覚して考え方や行動を変えたのはどちらの人物だったか、というところにポイントがあります。
つまりイエス様は祭司長や長老達に向かって「どちらが神様の御心をなしたのか」と問いかけられたのです。彼らは「出だしはどうあれ、結果的に畑に行って働いていた兄の方が、父親の望み通り下に決まっている」と判断をしたわけです。しかしそれがそのまま自分達への批判につながるとは思いもしなかったのです。
イエス様は厳しい言葉で彼らに言います「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら洗礼者ヨハネが来て神様の前にどう生きるのが正しいかを示したのに、あなたたちは信じようとしなかったからだ」
真の神に接した徴税人や娼婦たちは自分の罪を自覚し、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を受け、考え方や生き方を改めました。それに対し、祭司長や長老たちは頑固なままで、ヨハネの洗礼を軽んじて、自分たちこそが神様から権威を授かっているのだと傲慢になり、考えを改めようとしませんでした。そのことをイエス様は批判しているのです。
ただ、思い出していただきたいのは、「後にいるものが先になり、先にいるものが後になる」という御言葉です。真の神に出会って悔い改めた元徴税人が「自分は今、神様の御心を行えている」と慢心したり、「自分と違ってあの祭司どもは神様のことがわかっていない」と批判的な思いを抱いたり。その逆に祭司や長老たちが、「イエス様の言葉は自分の悪いところをついていた」と思ったりするなら、後の者と先の者がもう一度逆転してしまう可能性もあるのです。
私たちがそれぞれの属する教会を愛し、イエス様に導かれながらもう一度発展させ、神様に喜ばれる場所を作りたいとと、ほんの少しでも思うならば、イエス様のたとえ話の一つ一つを自分のこととして捉えていく必要があります。
宗教改革者マルティン・ルターは、人間が心から信頼し、頼りにしている対象、それがお金であれ、名誉であれ、信仰であれ、それこそが、その人にとっての「神」になると説きました。つまり、「信仰を置いている場所に、その人の心が現れる」のです。 そうであるならば、私たち自身も、心を自分だけに向けず、主の御心、真の心を聞くものとして歩む必要があります。
私たちはキリストの心を聞き、一つところに集められた人々と共に平和に共にこの地に過ごすことに心を砕き、真の心、共に信仰に生きる真心を持つ兄弟姉妹として、歩むことを、この上ない喜びとして参りましょう。
毎日曜日、朝9時半から45分間
ルーテルキッズバンドの練習を行なっています
次の本番は11月15日の「こども祝福式礼拝」
今回、飯田教会一番の歌上手おじさん、としやさんと
1曲一緒に歌うことになりました
金子みすずの「みんな違ってみんないい」
何種類か曲がありますが、杉本竜一作曲の曲が
としやさんのオハコということで
これを合唱することに決め、
今日が合同練習第一回目でした
としやさんの素晴らしい声量と正確なピッチに
圧倒されていたキッズですが
教え方がとっても上手なので
思いっきり乗せられて、楽しく歌うことができました
今から本番が楽しみです
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