聖霊降臨後第16主日礼拝(2026年9月13日)(緑)
創世記 50:15~21 (旧92) ローマ 14:1~12 (新293)
マタイによる福音書18:21~35(新35)
大抵の人間は怒りや恨みの感情をうまくコントロールすることができません。そんな私たちに向けてイエス様は、とても変わった赦しのたとえ話を語っておられます。ただし、この話を一度聞いただけで理解できるするは難しいかもしれません。
イエス様の話される譬え話は、少し聞いただけでは極端な話にも思えますから、イエス様の語り口に慣れているはずの弟子達でさえ、「よくわからないので、話の意味を教えてください」と願うほどです。
今回のたとえ話も、解説されてなるほどとすんなり納得できるのは、イエス様を信じて救われたものだけ、本気で神様に感謝しているものだけ、というお話です。
と言いますのも、イエス様を信じていると自負していても、なかなか神様の恵みに気づかないで、「神様を信じて本当に良いことあったかなあ」とぼやきつつ地上での生活を終える人も多いからです。
そんな私たちではありますが、神様はなんとかして私たちを愛しておられることを伝えようと思われます。神様はご自分の御心はこの喩えのなかに表されるから受け止めてほしい、と願っておられるのです。
福音書をもう一度見て参りましょう。ここには「仲間を許さない家来のたとえ」という見出しがついています。はじめにペトロが「私に罪を犯したものを7回くらいは赦すべきでしょうか」とイエス様に問いかけます。普段なら赦す気になれないような相手に対して、自分は寛大だから7回くらいは赦すことができますよ、というアピールだったのかもしれません。しかしイエス様は「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と答えられます。これは「何度でも何度でも赦しなさい」という意味です。驚くペトロと弟子達に対し、無限に赦すことは神様の御心だから、と例えを持って語られたのです。
この例えには裕福な王様と、王様からお金を借りながら返済できない家来が登場します。彼は仕事を失敗したのでしょうか、王様から借りた金は1万タラントン、日本円に換算して約6000億円にまで膨れ上がっており、もはやにっちも、さっちもいかなくなってしまいました。
王様は彼に向かって「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と命じます。要するに家族全員奴隷になって、家も家財道具も全部売って返済に当てなさい、と言われたのです。これは身の破滅です。家来はひれ伏し「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と、とことん詫び続けました。
一家全員奴隷に身を落としても、全財産を売り払っても、彼が作ってしまった借金には到底及びません。王様もそれは分かっておられました。しかし王様は侘び続ける彼を見て非常に憐れに思い、その借金を帳消しにして、全てなかったことにしてやろうと決めたのです。
王様からそう告げられた家来の喜びは言葉では言い表せないほどだったのでしょう。返済不可能なほど膨らんでしまった借金をどうやって返すか、という重圧から解放された家来は、新たな生き方をしようと心に決めたはずです。
もし彼が、『主人を見習って、主人のように人を赦すような、寛大な心で生きる人になりました』となればめでたしめでたしだったのですが、残念ながらそうはなりませんでした。
この家来は外に出た時、自分に100デナリオンの借金をしている友人と出逢います。100デナリオンは日本円にすると100万円ほどです。もしこの家来が王様の慈悲深さに心から感謝していたなら、きっとこう言ったでしょう。「私はたった今、王様から6000億円の借金を帳消しにしてもらったんだ。それに比べれば君が私から借りている100万円なんてちっぽけなものだ。返済なんていつでもいいからね」
しかし家来はそうは言わず、相手を捕まえて首を絞め、友人がひれ伏して「どうか待ってくれ」と願う言葉に耳も貸しませんでした。そしてついには牢屋に引っ張っていき、借金を返すまで牢屋に放り込んでしまったのです。
王様は、自分が許した家来が、寛大に、憐れみを持って弱い立場の人に接することができれば良い、と思っておられたのでしょう。だからこそ、家来が自分の友人にやったことを知った王様は怒りと失望を持って、家来をもう一度呼び出します。そして借金をすっかり返済するまでと、牢役人に引き渡すのです。家来はもう二度と日の目を見ることはないでしょう。
このたとえ話は、最後のイエス様のお言葉からわかるように、王様が天の父である神様を表しており、哀れみによって一度は赦された家来というのは私たち一人ひとりのことです。
人間の中には、わずかですが、なんらかの苦難に遭遇し「神様助けて」と祈って救われて、神様の存在に気づく人がいます。ただ、その人が神様に救われたことを心から喜び、神様が望まれる愛や寛容の心を持った生き方をしようとして努力が続けられるかというと、また別の問題のようです。それは、神様は人間には、自由意志というものを与えおられ、自ら進んで、御心を果たす方を喜ばれるからです。
神様の愛がわかって、御心に忠実に生きようとする人は、人としても磨かれ、さらなる恵みが増し加わりますが、救われたにも関らず、それを忘れてしまうなら、牢につながれるような人生を選択してしまうこともあるのです。
ただ、知っておいていただきたいのは、神様は一度堕ちた人間でも、なんとかして救いたいという願いを持っておられることです。今日読んでいただいた旧約聖書「エジプトのヨセフ」はそれが非常によくわかる記録です。
主人公のヨセフは父のヤコブに甘やかされて育ったため、兄たちに嫉妬され、嫌われてエジプトに売り飛ばされます。頑張って上司に気に入られ上手くいったかと思えば罠に嵌められて牢屋に繋がれ、それでも誠実に働くうちに才能を認められてエジプトの大臣にまで上り詰め、エジプトを食糧危機から救います。
一方ヨセフを売り飛ばした兄達は飢饉に見舞われ、エジプトの大臣になったヨセフに気づかないまま、その前に平伏して、食料を売ってもらうように頼みます。苦労を重ねて神様の愛と導きに気づいたヨセフは、かつての恨みを晴らそうとは思わず、彼らを受け入れます。時が流れ、兄弟が再びその赦しを疑ったとき、ヨセフは本心から赦していることを告げるのです。その思いがこの創世記50章19節、20節にはっきりと記されています。後ほどもう一度読んでみてくださればと思います。
人間一度、悪に染まったら、悪事を積み重ねる人生になるかもしれない、しかし、神様はそれを良しとせず、救いの出来事を成し遂げてくださる。私たち一人一人は何からどんなふうに救われたかに関わらず、神の愛の御手に救われ、赦された存在なのです。
赦されたことに気づいたなら、次の行動は、悪にさえ寄り添う御心を知るものとなることです。人に与える赦しや寛大さをけちけちとはせず、神様が出会わせてくださった、この世に悩みがあるものや、負債や罪あるものに寄り添い、御心を表していくこと、示すこと、実現することを、キリスト者として、喜びとしてまいりましょう。
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| 昨日は土曜学校でした 一人一人こだわりの模様の甲羅を描き 可愛い顔の亀さんを作って マグネットでぶら下げて楽しく遊びました いろいろ事情がありまして 子ども達の顔をUPできないのが残念ですが みんな笑顔で帰っていきました(^▽^) |

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