2024年10月20日日曜日

「キリストの栄光」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2024年10月20日)(緑)

イザヤ書 53章4-12節(1149) 

ヘブライ人への手紙 5章1-10節(405)

マルコによる福音書 10章35-45節(82)


 本日の福音書は、イエス様が十字架にかかるために決心を固くしてエルサレムを目指しておられる途中の出来事なのですが、今までイエス様に従ってきた人々は、すっかり勘違いして、イエス様が間も無く世直しのための王様になられる、そのために都へ行くのだ、とワクワクしていました。


 12弟子のゼベダイの子ヤコブとその弟ヨハネは、特にその思いが強かったようで、エルサレムに近づけば近づくほど、「イエス様が王様になったら自分も高い地位に着きたい」と願い、「今のうちにイエス様に大臣にしていただけるよう約束していただこう」と焦り始めました。


 彼らは3年間寝食を共にしながら、イエス様がもうすぐ十字架にかかられるという土壇場に来てもまだ神様のご計画を理解できていないのです。イエス様は彼らが正しく成長するためにもう一度考えさせる必要がある、と思われたことでしょう。


 日々、神様に導かれ、誠実にイエス様に従って歩んでき人が、突如として社会の表舞台に引っ張り出されたり、名声や富を手にするチャンスが目の前に現れたら、どうなるでしょうか。神の国こそ自分の目指している国だ、と信じて信仰生活を送っていたはずなのに、権力を手にしてしまったばかりにいつまでも自分の思い通りになる、そんな国を望むようにならないでしょうか。


 そのためなら神様の御心から背いて、罪にまみれてもなんとも思わなくなる。権力や名声を手に入れたばかりに、そんな罪人になってしまう。人間はそのような恐ろしい独裁者になる可能性を持っているのです。


 実は、聖書という書物は、そんな人々の罪について、残酷なほどはっきりと記録しています。もし、長年聖書を読んでいながら聖書が理解できない、分からないというならば、その原因は聖書には人間の罪が記されていることを認めようとしないことにあります。そして何より自分の罪を認めないことが大きな原因なのです。


 さて、お話を福音書に戻しましょう。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエス様の弟子の間の中ではNo.2的な存在でした。No.1は弟子のリーダー格のペトロだと、誰もが思うところです。しかしこの時、ヤコブとヨハネはそのペトロを出し抜こうとしました。ヤコブとヨハネはこう言いました。「イエス様が栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。こつまり「イエス様がイスラエルの王様になる時、自分も高い地位に着きたい」「イエス様の最も重要な大臣に任命していただきたい」という意味でした。


 これにより、彼らは「イエス様が栄光をお受けになるとき」が何を意味しているのかまるでわかっていなかった、つまりイエス様が十字架にかかって死ぬことで、神様のご計画が完成する、そのことをまるで理解していなかったことがことがはっきりするのです。


 本日の旧約聖書「イザヤ書」にはイエス様がお生まれになった目的は、人間の罪の身代わりとして命を差し出し、神様に人間を赦していただくことだと、はっきり記されています。そして新約聖書のヘブライ書では、それこそがイエス様がお受けになる栄光なのだと記しています。


 しかしこの時、他の弟子たちもイエス様の目的を全く理解していませんでした。誰も理解しないままヤコブとヨハネの出過ぎたお願いに腹を立てたのです。弟子たちは自分達がイエス様からどれほど大切にされ、愛されているか気づかないまま、利益だけ得たいという低俗な人物になり成り下がってしまい、この小さい群れの中で、心の中に秘めていた欲望を表に表して仲違いを始めたのです。


 しかし、それはイエス様にとっては説教の機会でもありました。イエス様は今までも忍耐強く、何度も何度も弟子たちに神様のご計画を話されました。今理解できなくても、復活して再会した時にそれを受け入れやすくするために、イエス様は語り続けられたのです。弟子たちの理解が鈍く、何度も語る機会があったからこそ、そのお言葉は繰り返し聖書に刻まれ、のちの時代のわたしたちも、何度も何度もイエス様のお覚悟を噛み締めながら聖書を読むことができるようになったのです。


 そしてイエス様は、弟子たちに「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼、洗礼・バプテスマを受けることができるか」と問いかけられます。弟子たちは深く考えもせず「できます」と即答しますが、私たちはこの御言葉にどう答えるでしょう。「信者になるために洗礼は受けましたし、特別用事がない時は礼拝に来ますし、儀式として聖餐式にはできるだけ参加しています」そう答えるだけなら、イエス様はきっと淋しい顔をなさることでしょう。


 イエス様は十字架にかかる直前に弟子たちと共にパンを裂き、聖餐式を行うよう教えました。そして初代教会の人々がイエス様を覚え、聖霊の働きを感じ、宣教の歩みをしていく時に「一緒にパンを食べる」ことを大切にしました。ですから以来2000年にわたって、教会ではパンを一緒に食べる仲間同志、自分の社会的立場や権力で仲間を苦しめるとこはしないで、共に仕え、共に歩むよう努力を重ねてきたのです。


 本日の福音書で「偉くなりたい者」は「皆に仕え、僕となるように」と書かれています。それは「弱い者」が自分を守るために「強い者」を利用しようとするのでもなく、「強い者」が「弱い者」を排除するのでもなく、ただ互いに与えられている賜物を用いて「仕える者」になり、イエス様に喜こんでもらうように、ということなのです。


昨日は久しぶりの土曜学校でした

今は工事期間のため

幼稚園の新園舎の遊戯室をお借りして行いました


聖句「成長させてくださったのは神です」をテーマにして

紙芝居「幸せの王子」の台本を

大幅に書き換えて演じました

ちょっと長かったのですが

最後まで集中して聞いてくれました


工作は色画用紙を使って

可愛い気球を作ってみました

少し手こずったところもありましたが

なんとかみんな完成させることができました


来月も第3土曜日に実施する予定です


広々とした遊戯室
椅子や机もお借りしましたが
小学生高学年には小さすぎて
床に体育館座り中(^^;)

制作見本を撮影し忘れたので
K君に完成作品を持ってモデルになってもらいました


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