2024年10月13日日曜日

「主イエスのまなざし」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2024年10月13日)(緑)

詩編 90編12-17節(929) 

ヘブライ人への手紙 4章12-16節(405)

マルコによる福音書 10章17-31節(81)


 本日読みました福音書には「たくさんの財産を持っている」人物が登場します。良い家柄に生まれ、しっかりと宗教教育を受け、教養もあり上品で、親の財産を上手に運用し、健康にも恵まれた人物像のようです。


 一般民衆がローマに支配されて、その日その日を生きるだけで精一杯な時代、彼は経済的に恵まれ、学問に打ち込む時間も十分あったため、永遠の命について思い巡らし、このまま死んだらどうなるのか、と思い煩う時間も十分にあったのでしょう。


 彼はうやうやしく膝まづいて、イエス様のことを「善き先生」と呼びかけます。しかしこの「良き」という言葉は「尊き」という意味に使われており、相手に対して「親切な」とか「恵み深い」というような、血の通った人格的な交流があって初めて相手の「尊さ」に気づく、といった言葉です。初対面の相手にいきなり「尊い」と使うのはむしろ何か馬鹿にしているような、ちょっと失礼な感じが漂うのです。ですからイエス様は「善い先生」と呼ばれることを拒絶なさったようです。


 と言ってもこの金持ちはイエス様をからかうつもりなど毛頭なく、自分の努力を有名な先生であるイエス様に認めてほしいと真剣に思っていたようです。彼は律法を守り、まっすぐ人生を歩んできたという自負がありました。しかしどこまでやっても確信がありません。彼にとっての神様のイメージが、厳しいだけの頑固親父か血も涙もない裁判官のようで、毎日毎日必死で努力して、これでどうでしょう、まだ足りませんか、ではこれでどうでしょう、と顔色を伺うばかりだったからです。


 そんな彼に向かってイエス様は、「神様はアバ父よ、と呼ばれることを喜ぶ方でなのだ、あなたは肝心なその点を見失っていないか」と言われたのです。イエス様に向かって「善い方」と言う前に、神様ご自身に「私の善い神様」と呼びかけることから、もう一度やり直しなさい、と示されたのです。


 その上で「あなたの財産を貧しいものに分けてあげたらどうか」と言われたのです。イエス様は厳しい表情で、何かを宣告するようにおっしゃったのではなく、彼に向かっていつくしみの目を注がれながら語られたことが記されています。イエス様が優しい目を彼に注がれたということは、その向こう側にいる神様も彼を優しく見つめていたはずです。神様は彼が今まで必死でやってきたことを「そんなこと無駄だ」と切り捨てたりはなさいません。ただ、その方向を修正し、その情熱でご自分を信頼してほしいと願われたのです。


 ですからイエス様は、今持っているもの全てを失っても、神様自身が守り、導き、育ててくださるから、それ以外のものに頼ることをやめ、たとえすっからかんになっても神様が守ってくださると信じ切る努力をしなさい、その信仰を養いなさい、と言われたのでした。


 しかし彼は財産を他人に施して神様の腕の中に飛び込むことはできませんでした。莫大な財産が彼の足枷となり、せっかく天国の入り口まで辿り着きながら、今までの生き方から抜け出すことが出来ず、引き返す羽目になってしまったのです。なんと悲しいことなのでしょう。天国にはこの世のものは何一つ持っていけないのに、財産に執着したために、最も欲しいものを手に入れそびれてしまったのです。


 悲しみながら立ち去る彼の後ろ姿をご覧になったイエス様は「金持ちが神の国に入るよりらくだが針の穴を通る方が簡単だ」と言われます。


 これを聞いた弟子たちも、そして私たちも、それでは誰一人として神様の国に行けないじゃないか、と思ってしまいます。しかしイエス様がよく例えを用いられることを考えますと、ここにはちょっと別の解釈の仕方もあるようです。


 かつてイスラエルはどの町も城壁に囲まれてました。一説によるとエリコの街の城門には「針の穴」と呼ばれる小さな通用門があったそうです。ラクダに商品を満載にしてにやってきた旅人が、街に入るには、ラクダから荷物を降ろし、ラクダも旅人もひざまずくようにして通らなければならなかったのだそうです。


 旅人にとっては難儀なことですが、長い旅をしてきたラクダにとっては、やっと重い荷物を下ろせる場所にたどり着いたわけです。ラクダは大喜びで荷物を振り落とそうとします。どんなに貴重なものであろうとお構いなしです。


 もしこの説が本当ならば、イエス様は私たちに単なる無理難題をおっしゃっているのではなく、神様の前に謙虚であることをラクダを通して教えておられると言えるでしょう。本気でその門をくぐろうとするとき、神様とイエス様の前にひざまづき、「この世の宝を捨てても神の国に入る方が良い」と考えるあなたを神様が導いてくださる、とイエス様は教えられたのです。


 そうはいってもなあ、と私たちは思うでしょう。この世を生きていくためにはお金も必要で、簡単にすっからかんになれる訳でもありません。ただ、そんなことはイエス様は百もご承知なのです。それでもイエス様はあなたにとって一番大切なものは何か?と問いかけられます。私たちがいざという時、最も大切なものとしてイエス様を選ぶ人間かどうか見抜いておられます。その上で、私たちがどのような人間であっても、ご自分の招きに従おうとする人々を切り捨てたりはなさいません。


 イエス様が私たちに眼差しを向けられるとき、その眼差しは暖かく、「この人の信仰は100点満点の何点か」などと値踏みされるようなことはないのです。最期の時を迎えたなら、私のものは全て神様のものと宣言して堂々と天国の門をくぐる、そんな人生を送りたいと思うのです。


第1土曜日に行ってきた土曜学校
今月は遅ればせながら第3週に行います
礼拝堂がリノベーション準備に入ったため
新しい園舎の一角をお借りしての実施です
園内もまだまだ片付いたとは言い難い状況なので
この日参加するお友達があちこち自由に
探検するわけにはいきません
お越しになる方はなるべく時間通りに
お集まりくださいね

2024年10月6日日曜日

「律法と幼心」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第20主日礼拝(2024年10月6日)(緑)

創世記 2章18-24節(3) 

ヘブライ人への手紙 1章1-4節(401)

マルコによる福音書 10章2-16節(81)


 今度の土曜日は、姪っ子の結婚式の司式を行うことになり、八王子方面まで行って参ります。彼女は姉の一人娘で、物心ついた時からこの30年「おじさん」と呼ばれることなく、姉とよく似た顔で、姉と同じように晴朗君と呼ぶのです。全く親の顔が見てみたいと思ったりします。


 夫婦の関係で支え合う仲を表現する時、「共に軛を負う」という表現が良いと思います。「くびき」とは、本日の週報の表紙の写真にあるように、牛や馬を使って耕運作業や車輌の牽引などをする時、うまく車を引っ張れるように、首を挟む横木のことです。


 新郎新婦を牛や馬に例えるなんて失礼な、と思うかもしれませんが、一緒に軛に繋がれている時、引っ張っているものの重さばかり気にするのではなく、夫婦として同じ目的を持って足並みを揃えて歩んでいることを喜びとしなさい、というのがイエス様の教えです。


 また、ここに記されている「休ませてあげよう」というイエス様の御言葉は「爽快である」という意味に取れるそうです。同じ軛に繋がれていることを不自由と感じるよりも、互いに認め合って同じ方向に向かって人生を歩んでいくなら、どれほど大変な道でも爽快に歩んでいくことができる、という意味に理解できます。


 ところで、本日の聖書箇所は、結婚式ではなく離婚のお話です。ファリサイ派の人々がイエス様に向かって「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と尋ねますが、彼らは申命記24章に、夫から妻に離縁状を渡すことは可能と書かれていることをちゃんと知っていて、イエス様の揚げ足を取ろうと待ち構えていたのです。


 申命記には、離婚の理由に「妻の側に恥ずべきことがある場合」と規定されています。こんな抽象的な書き方では、男性が何がなんでも離婚したいと思った時には、何にでも難癖をつけ、「これは恥ずべきことだ」と言って離婚を押し通すことが可能です。


 しかしイエス様は神様がそのような男の身勝手のために結婚の仕組みや律法を定めたのではない、と、神様の願いを深く知ろうともしない人々に憤りさえ覚えながら、夫婦は共にくびきを担う存在として神が結び合わせてくださったものである、だから人は自分の身勝手で離してはならない」とおっしゃったのです。


 ちょっとテーマは外れるかもしれませんが、この軛の例えは、結婚に限らず、同じ働きをする仲間との関係においても言えることです。神様から与えられた使命を共に担う仲間と、同じ軛を負うという覚悟は、私たちの人生を縛り付けるのではなく、豊かにするのだ、とイエス様のお話から理解することができるのです。


 この時期、イエス様はいよいよエルサレムに、十字架の死に向かおうとしておられました。そんな時、次々と、結婚、子ども、財産について質問してくる人が現れます。これらは私たちにとって日常と切り離せない関心事です。問題を先送りにしているといよいよ手遅れになって後悔をします。ですからどんな些細な悩みでも、イエス様の御言葉に当てはめて考え、目覚めている必要があるのです。


 10章の初めには、イエス様が「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側」におられると書かれていますが、これはユダヤからヨルダン川を越えた辺りと翻訳できるそうです。イエス様の弟子達、つまりエジプトから逃れてイスラエルにやってきたユダヤの民にとっては、ヨルダン川を越えるということは、新しい土地に入るとか、新しい次元に入るという意味が感じられる表現だそうです。


 「ヨルダン川を超える」という言葉に込められたメッセージは、「ここまで聖書を読み進めてきたあなたは、今までの常識から離れて、イエス・キリストへの信仰によって日常生活に起こるトラブルを乗り越えていきなさい」と読み取ることができるのです。


 最後に、イエス様が離縁についてファリサイ人たちを論破した後、人々が自分の子どもをイエス様に祝福していただこうと連れてきたところを見ておきましょう。ここには「弟子たちはこの人々を叱った」と記されています。ところがイエス様は逆に弟子たちを叱って「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいます。


 イエス様が幼子を大切になさったのは、単に子ども好きだから、というわけではありません。幼子が自分の両親に愛され守られていることを疑わないように神様に信頼し、愛と感謝を持ち、神様から悔い改めを促されたときにはちゃんと「ごめんなさい」が言える、そのような心を大人になっても持ち続けることの大切さを示されたのです。


 私たちはイエス様を信じる群れとして、神様から共に負うように、一つ軛に繋がれています。それを嫌がって強引に振り落とそうとするのではなく、共に担っていく覚悟を決めるとき、そこにはイエス様も共にいて、同じ目的地まで共に担っていけるのだ。そう子どものようにシンプルに信じることを、イエス様は喜んでくださいます。


 私たちは失敗も欠点も多く、時に神様を裏切り、悲しませる者たちです。しかしイエス様は、そして神様は、何度裏切られても愛情深く、忍耐強く、人間を見守り、道をはずれそうな私たちに向かって、解放の為に共に重荷を負って進むから、と言ってくださいます。その愛と忍耐に応えて共に祈り、軛が軽いことを信じて歩んでまいりましょう。


引越し先の古民家の庭の隅に
こんな植物が生えていました
最初はミョウガだと思っていたのですが
やがてシュルシュルとのびて
ミョウガとは似ても似つかぬ花が咲きました
どうやら「ヤブミョウガ」のようです
成長して特徴が見えてきて何者か分かってくる
興味深いです