2024年9月15日日曜日

「キリストに従う」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝(2024年9月15日)(緑)

イザヤ書 50章4-9a節(1145) 

ヤコブの手紙 3章1-17節(424)

マルコによる福音書 8章27-38節(77)


 本日の福音書を見ますと、マルコはイエス様のことを「人の子」と記しています。あれ?イエス様は「神の子」でしょう?と思われるでしょうが、ネタバレをしてしまいますと、「人の子」も「神の子」も、聖書においては同じ意味です。


 ある資料によれば「人の子」というのは「人間」を意味するイスラエル地方の慣用句で、聖書に100回以上出てくるうち、ほとんどの場合が「人間」を意味する文脈で用いられているそうです。人間は神様に愛され、神様に似せて作られたので「神様の子ども」です。とは言え、人間は決して神にはなれない、という考え方が「人の子」という言葉の中に込められていると言われています。


 こうお話ししますと、マルコがイエス様のことを「人の子」と表現した意味がますますわからなくなるかもしれませんが、「人の子」という言葉が登場する中でも有名な「ダニエル書」に、こんがらがった謎を解くヒントがあるようです。


 ダニエル書の主人公であるダニエルは7章13節から14節に預言を記しています。「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」


 つまりダニエルは、いつの日か神から権威と御国を授かる方が来られる、その方は「人の子」、つまり人間の姿を持っている、と表したのです。


 ここについて詳しくお話しする前に、ダニエルはどういう人物かと言いますと、ユダヤ人として神様への熱い信仰を持ちながらも、異国の地で異なる宗教を持つ王様に仕えていました。それには悲しい理由がありました。


 紀元前500年代の終わり頃、イスラエルの国がバビロニア帝国との戦いに敗れて滅ぼされた後、主だった人材はバビロニアの労働力として捉えられ、連れていかれたのです。ただバビロニアは連れてきたイスラエルの人々を同例のように扱ったのではなく、優秀な人物は積極的に登用し、国の政治に参加させました。


 人間の集団、組織というのは、自分が組織のトップになろうと裏切者が現れ、クーデターが起き、組織が崩壊することにつながります。そこで必要になってくるのが、有能な新しい血です。ここに登場するダニエルは、イスラエルから連れてこられた捕囚の中でもひときわ優秀な若者だったので、王様に信用され、信仰も容認され、政治の中枢を担います。


 ダニエルはどんな時も祖国のことを忘れず、いつの日か再び神様を中心とした国が起こされることを祈り求め、その信仰は常に堂々としていました。そのせいで命を落としそうになったこともありましたが、神様は彼を守りました。


 そして神様は、ダニエルに夢の中で語りかけ、遠い未来に「人の子」のような方が悪者どもを滅ぼし、神の民と共に地上に神の国を実現させてくださる時が来る、と教えてくださったのです。


 ここまで読めば、新約聖書を知っている私たちは、ダニエルが見た「人の子」のような方とはイエス様であるとわかるのではないでしょうか。イエス様は神様でありながら、弱さを持つ人間となって私たちの間に生まれてくださり、大いなる力を封印して苦しみの中を歩み、罪を犯した人間の気持ちや差別される人々の気持ちさえを理解してくださったのです。言い換えるならイエス様は「神であり、人である」お方です。このようなお方は後にも先にもイエス様しか存在しません。


 そこで本日の福音書に目を向けますと、ここは一番弟子のペトロが「あなたこそメシアです」と告白する場面です。ペトロの信仰はすごいなあ、と思われがちですが、当時の「メシア」という言葉は、「正しい政治を行う理想的な王様」という意味で使われており、ペトロは「メシア」を「政治的圧力から自分達を解放してくださる新しい王様」という意味で使ったと思われます。


 そこでイエス様は、弟子たちが「本来のメシアとはどういうものか」理解できていないことを改めて知り、ご自分が多くの苦しみを引き受けて十字架で死なれることをお話になったのです。


 ところがペトロはイエス様に社会的成功をしてほしいと心から思っていましたから、そのお話を遮り「そんなことがあってはならない、あなたは何を言ってるんですか」と諌め始めたのです。


 ペトロは敬愛するイエス様が苦しみを受けることや、虚しく排斥され殺されることなど否定しようとしました。しかしイエス様は、その道を通らなければ、神の国が実現しないことを誰よりも分かっておられました。たとえ思いやりの心からの発言であっても、自分の勝手なメシアのイメージをイエス様に押し付けるなら、この世から救いを遠ざけてしまうことになってしまうのです。だからこそイエス様はペトロを厳しくお叱りになったのです。


 これは私たちキリスト教の組織や教会にも当てはまります。聖書からイエス様の御心を学ぶ機会があるにもかかわらず、それをせず「教会はこうあるべき」と自分の思い描く善意の行動を優先するなら、教会は崩壊していきます。


 キリストに従う時、私たちは人の子としての弱さを持ちます。多くの人々から排斥され、罵られることもあり、社会的から疎んじられることがあるのです。しかし、人の子は神に愛される子どもでもあることを信じ続けましょう。


 キリストは人の子としての弱さを持ちながら、完全な神の子です。その方に従い、信仰に導く道を歩んで参りましょう。


いつまでも暑いですね
少し涼しそうな写真を載せましょう
教会の近くにある公園の噴水です
ちょっと足をつけたくなってしまいますね


2024年9月8日日曜日

「癒し主イエス」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第16主日礼拝(2024年9月8日)(緑)

イザヤ書 35章4-7a節(1116) 

ヤコブの手紙 2章1-17節(422)

マルコによる福音書 7章24-37節(75)


 私たちは本日は、聖書日課に従い、2か所の「癒し」の出来事見てまいります。まず、イエス様に娘を癒して欲しいと願う女性ですが、彼女は自分がユダヤ人ではなく、その当時はイエス様の癒しの対象ではないことを十分知っていました。しかしイエス様に拒否されても機知に富んだ返答をし、いやしを与えられました。


 耳が聞こえず、舌の回らない人の場合は、イエス様が「エッファタ」と言われたのと同時に、耳が開き、舌のもつれが解けて、はっきりと話すことができるようになったと記されています。


 最初の癒しの舞台となったティルスはイスラエル人にとって神様に見捨てられた、汚れた異邦の地です。普通のユダヤ人ならそこに住む人々と個人的な関わりを持つことはありません。しかしイエス様はあえてティルスに行かれたのです。そこならばイエス様にいやしを求める人はいおらず、一休みできると思われたのかもしれません。


 イエス様は神様のご計画により、まず第一にユダヤの民に神様の御心を伝えてこられました。しかしユダヤの民は、神の御心を求めるよりも先祖からの律法を守ることを重視しました。専門家たちも民衆を厳しく指導することで、満足していました。残念ながらいつの間にか神様との生き生きした交流は失われていたのです。


 ところがこのシリア・フェニキアの女性は、イエス様を神様であると信じた上で関わっていただくことを強く求めたのです。娘が悪霊に取りつかれているという困難な状況の中で、救うことの出来るのは、イエス様だけだと確信していたのです。


 彼女はイスラエルに律法があることを知っていましたし、律法を守らなければ神様に愛されないらしい、という知識も持っていたでしょう。それを基準にするならば、自分はイエス様に癒やされて当然などとは全く考えていなかったでしょう。


 しかし彼女は、異邦の自分でも必死で祈って、求めて、信仰によって繋がろうとするならば、この心優しき癒し主は、決して突き放しはしない、そう感じていたのです。そして、そう信じて疑わない彼女の心を、イエス様は見抜かれたのです。


 イエス様は「ユダヤ人優先」の基本を貫いてこられましたから、一旦は彼女の願いを退けます。しかし彼女は「子犬でもパン屑はいただきます」と答え、イエス様のお心を揺さぶります。


 少し前に、私たちは、イエス様が5千人の人々にパンを与えたことや、もっとパンが欲しいと考えた人々がイエス様を追いかけ回したことを聖書から学びました。イスラエルの人々は、ユダヤ人である自分達が神様からパンをいただけるのは当然であると思い込んで、信仰的な意味を深く考えないままイエス様を苦しめました。


 しかし彼女は自分の立場をわきまえた上で「ユダヤの人々の余り物でも私には十分な恵みです」と答えたのです。彼女が5千人の給食のことを知った上でこう言ったのかどうかはわかりませんが、イエス様はこの出来事から異邦人であっても豊かな信仰を持つことが可能であると確信してお喜びになり、癒しを行ったのです。


 この出来事に続く物語は、ガリラヤへと帰ってきた後の出来事です。イスラエルの人から見れば、イエス様は異邦のけがれた地を巡って何をしてきたのかと思われるような状況です。しかし、それでもイエス様の癒しを求める人は待っていました。その人は耳が聞こえず舌が回りませんでした。ユダヤの律法によれば神様に見捨てられた人物ということになります。差別の中にいるこの人は、一人でイエス様の前に進み出る勇気はなく、なんとかしてやりたいと思った人々に連れられてやって来たのでしょう。


 イエス様は異なる言葉を話す異邦人の土地を巡ってガリラヤ湖のほとりに戻られたばかりでした。この時わざわざ、ユダヤ人が日常的に使っていアラム語を用いて癒しを行ったのは、神様の御心はまだユダヤの人々から離れていないことを表そうとされたのかもしれません。


 そしてまた、この「エッファタ」「開け」と訳されるこの言葉には「解放されよ」という意味もあったようです。イエス様はこの人の耳が聞こえ会話ができるようになるだけではなく、律法に縛られたユダヤの人々に向かって、行き過ぎた律法主義とそれが生み出す偏見から自由になりなさい、と言われたのではないでしょうか。


 現代の私たちは、信仰を持つ身でありながら、イエス様に病を癒していただきたいと求める人に、現代の科学や医療の常識を振りかざすことがあります。イエス様を信じているといいながら、イエス様があらゆる癒し主であることを信じないでいるのです。知らず知らずのうちに神様に不遜な態度を取ってはいないでしょうか。


 改めてこの箇所を読む時、私たちは自分に都合の良い「癒し」や「救い」を望んで勝手に失望するのではなく、頭から否定するのでもなく、ただイエス様を信頼して素直に願うことの大切さを教えられます。「祈っても何も起きない」という前に、自分がどれだけ真剣な祈りによる関わりを振り返る必要があるでしょう。


 私たちは私たちと関わり合う身近な人々に、イエス様は「癒し主」であることを伝え、癒しを求める人々と共に祈ることを大切にしてまいりましょう。


 最後になりますが、かつてイエス様が歩まれたイスラエルで、民族の誇りゆえに歴史や宗教に縛られ、本当の神様の姿を見失って暴力の連鎖に苦しむ人々のために祈りましょう。イエス様によって彼らが憎しみから解放されますよう、イスラエルの地に真実の癒しと平和が訪れますよう「エッファタ」「解放されよ」と祈るのはイエス様の御心を知るクリスチャンの役目であると信じ、願い求めてまいりましょう。



8月31日(土)に、園舎のお別れDAYが企画されました

台風の進路がどうなるか気がもめましたが

無事開催され、たくさんの卒園児や

保護者の皆様が来てくださいました

園舎は今月半ばには取り壊しが始まる予定です


「礼拝堂はリノベーションをしてそのまま残します」と

お話しすると多くの方たちが「それはよかった」と

喜んでくださいました

「故郷がそのままあるようで嬉しい」とおっしゃる方も

リノベーションが終わったら

ぜひ礼拝に来ていただきたいものです


実は地元のケーブルテレビの取材があり

8月2日(月)に放映されました

テレビに向かってシャッターを切るという

アナログなことをしてみました

色がおかしいのはそういう訳です(^^;)






2024年9月1日日曜日

「祝福された民」(日曜日のお話の要約)

餐式・聖霊降臨後第15主日礼拝(2024年9月1日)(緑)

申命記 4章5-9節(285) 

ヤコブの手紙 1章17-27節(421)

マルコによる福音書 7章14-23節(74)


 本日はマルコ福音書からイエス様のお言葉を見て参りますが、その前に聖書の民、ユダヤ人の歴史について少し触れておきたいと思います。かれらは出エジプトの時代、おおよそ紀元前1300年ごろ、神様から十戒をいただきました。そしてそれに従って出エジプトの旅を終えた人々はヨルダン川流域に定住します。本日読んでいただいた申命記4章5節から9節は、十戒を与えて下さった神様への信仰を中心に、約束の地での国造りを行うための誓いの場面です。


 しかしその場所は周辺諸国にとって交通の要所であり、エジプトやアッシリアといった大国との領土争いに巻き込まれやすい場所でもありました。そのため彼らは何度も民族が滅亡するようなピンチにさらされます。


 中でも紀元前500年台のバビロニア帝国との戦いでは、神殿は壊され、主だった人々はバビロニアに連れて行かれるバビロン捕囚という過酷な経験をします。しかし彼らはバビロニアでも神様の掟を守ろうと必死でした。祖国にいた時と同じように集会所を作って礼拝を守り、子どもたちにも十戒や神様の素晴らしさを教え、民族の誇りを保てるよう教育したのです。


 ただこの教育は厳しさを伴いました。国を守る為、社会を守る為、人を守る為、十戒をしっかり守るため、律法の専門家による指導が行われました。聖書を学び、律法を守るものは誉められ、そうでないものは切り捨てられたのです。


 私たちは福音書を通して、障害を持った人が差別されたり切り捨てられたりする物語をいくつか知っています。いつも神様に愛される優秀な民族であろうとしたユダヤの人々は、生まれつき障害を持った人々は神様に愛されていないのだ、と決めつけ、人生の半ばで障害を負った人々に対しては「神様に見捨てられた」と判断しました。私たちの目から見れば歪んで見えるこの価値基準は、ユダヤの人々が神様の前に優れた民族でいようと頑張りすぎた結果生まれたものだったのです。


 そんなユダヤの世界にお生まれになったのがイエス様でした。イエス様の教えは律法第一の人々の教えと真っ向から対立しました。イエス様は神様の愛を伝え、人間が幸せになるために十戒をお与えになったのであって、人が人を差別し障害を持つ人の生きる意味を奪い取るようなことをしてはならない、とお教えになったのです。イエス様は神様ですから、神様がお与えになったルールの本当の意味を100%理解しておられます。だからこそ大胆に神様の御心を教えてくださったのです。


 しかしその教えは、古い律法解釈しか知らない人々にはバチあたりな教えと感じたようです。12弟子たちもその辺りにはかなり迷いがあったようです。しかし神様は、自ら新しい解釈を与えて下さいます。例えば、旧約聖書には食べるものを制限する「食物規定」がありますが、これは毒のある植物や食中毒を引き起こす食べ物についてまだよく知らない人間を守るためだったと考えられます。


 ですから科学や調理法がかなり発達したイエス様の時代になると、神様のご命令も変わってきます。さまざまな民族に宣教していくためには他の民族の食文化を受け入れる必要があります。同じ釜の飯を食することで仲良くなれるのはどんな民族にも共通しています。ですから、イエス様が天に帰られた後、他民族に伝道するために、神様は一番弟子のペトロにむかって「私が清めたのだから、なんでも食べなさい」と命じられたことが使徒言行録10章にはっきりと書かれています。


 そしてペトロ自身、「ユダヤ人が外国人と交際することは律法で禁じられてきたけれど、神様ご自身がどんな人をも汚れていると言ってはならないとお命じなりました。だから私は異邦人のあなた方のお招きに応じたのです」と語っています。律法の再解釈によってペトロは伝道者として大きく前進したのです。


 本日のイエス様の教えは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」と語っておられます。これは現代のわたしたちが考えるような有害な食品添加物とか、そんなことではもちろんありません。


 「あなたたちは、外に問題があると、外にばかりに目を向けて、自分の周囲に問題があると批判して押し付け、解決して気になっているけど、そもそもあなたの内面はどうなっているのか?」と問いかけておられるのです。


 謙虚になって私たちの内側に目を向けるなら「悪い思い、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」といったよくないものがあることは、分かると思います。人の心にあるそれらの思いは、何かのきっかけで目覚めて溢れ出し、自分も周りも汚されていくのです。


 しかし、そのようなものが心にあっても神の子・主イエスは受け入れ、コントロール方法を教えてくださり、私たちもこの方に頼りながら、心の中の悪い思いに振り回されそうになったら、悔い改めるかのようにイエス様に向き直り、執り成しの祈りを捧げるのです。


 私が神様の前に清らかで正しいから祈って構わない、ということでは決してなく、悔い改める必要があるから、このままだと自分も他人も汚してしまいそうになるから祈るのです。悪意に染まりきってしまわないように神様は「祈る」という方法を与えてくださったのです。


 神の掟とは、それを十分に行うことが出来なければ、神様の祝福は受けられない、というものでは決してないのです。私たちは、掟を重視しすぎた人々が結局神様の愛を見失った事実を聖書を通して知っています。だからこそ、完璧でなくても、今日も悔い改め、もう一度神様の愛を知り、前を向いてコツコツと、神の御子イエス・キリストを知る群れとして祈りつつ歩んでまいりましょう。



とんでもない台風が日本とその周辺地域に

酷い打撃を与えています

皆様のお住まいの地域はいかがでしょうか

これ以上被害が広がりませんように

また、被害を受けられた皆様の上に

主の慰めと励ましを祈ります



暑さの中でも植物は
そろそろ秋の気配を漂わせ始めました
台風が過ぎ去れば
あまりにも暑かったこの夏も終わるでしょう
そう願いたいものです