三位一体(聖霊降臨後第1主日)礼拝(白)(2022年6月12日)
ローマの信徒への手紙5章1-5節 ヨハネ福音書16章12-15節
ヨハネ福音書はもともと哲学的で難解な表現がたくさんありますが、本日読みました箇所にはイエス様自ら「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」とおっしゃいます。
師匠であるイエス様から、「今、あなたがたには理解できない」という言葉を投げかけられて、自分はひとかどのものだと思い込んでいた弟子たちは複雑な心境になったでしょう。しかしイエス様はすぐに正解を知りたがるくせに、知ったら知ったで忘れてしまう、そんな人間の性質を見越した上で、「正解を人から教えてもらうことばかり考えないように」とおっしゃっているようです。
この出来事は最後の晩餐の席上でのことです。イエス様がエルサレムに着いたとき、人々は大いに盛り上がり、イスラエルの王様になってもらいたいと望み、ホサナの歓声で迎えました。弟子達はすぐそこに迫っている危機には気づかず、誇らしげに行進しました。
イスラエルは今までローマ帝国の属国として押さえつけられていたけれど、イエス様ならこの国を解放してくださるだろう。その時には、イエス様の弟子達である自分達は、イエス様の側近として国の財政や軍事を預かり、近隣諸国から脅かされないように国を守っていこう。弟子たちはそんな強い思いを持っていました。
しかしイエス様はその夜のうちにエルサレムの最高指導者達の指示によって捕らえられ、激しく鞭打たれた末に十字架にかけられたのです。
イエス様を陥れた国のトップ達、祭司やファリサイ人は、イエス様が民衆にあまりに強い影響を与えるので、それがローマへのクーデターにつながり、ひいては自分たちの立場だけでなく国そのものが危うくなることへの恐れを感じていました。
彼らは国を守るためと言いながら、体制の邪魔になる人物を陥れて殺したり、神様の教えを悪用して弱者を切り捨てたり、掟や教えをやたら難しくして庶民をコントロールしようとしたり、権力を傘にきてやりたい放題を行った様子は福音書にも記されています。
もちろん、彼らの行動やそれを許しておく国の有様は神様の思いからかけ離れており、もちろんイエス様の思いとも離れていたのです。イエス様はご自分の話を聞く人々に、あるときは遠回しに例えを使って、あるときはストレートに、神様のお考えを話して聞かせ、正しい道を歩むように教えられました。それを聞いた人々は深く心動かされることもありましたが、理解できず思考停止に陥ることもしばしばありました。
弟子たちにしてみれば、わかるわからないを超えて、ただ信じていくという道を選ぶことは、かなりの勇気がいることでした。しかし、彼らは頑張ったのです。おそらくイエス様が逮捕されるギリギリまで、イエス様を信じ抜こうと頑張ったのです。それでもやはり人の思いには限界があります。どれほどイエス様を愛し、信仰的に生きようと思っても、自分の努力だけではどうにもならないことを、弟子たちは十字架を前にして、嫌と言うほど思い知ったのでした。
根性や信念だけではどうにもならない。では何が必要なのか、何があれば可能なのか、そう考えた時、イエス様が十字架にかかる前の夜に、すでに答えを与えてくださっていたことに彼らはようやく気づくのです。本日の聖書箇所「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」つまり、イエス様は、ご自分が天に帰られた後、聖霊なる神が来られるから、あなたたちは私が教たことがわかってくる、と予告されていたのです。
そしてペンテコステの日、待ちに待った聖霊なる神が降臨され、弟子たちはイエス様から深く愛されていることを再び知ることになります。ただ、使徒言行録を読めばわかりますが、弟子たちは一足飛びに立派な信仰者に育ったわけではありませんでした。仲間同士意見の違いもありましたし、失敗も繰り返しましたが、少しずつ少しずつ成長して、地中海沿岸に仲間の信仰者を増やしていきます。そうして、やがていくつもの教会が誕生したのです。
その聖霊なる神は、ここで礼拝に預かる私たち1人1人のところにも来られ、今この瞬間も、イエス様のお言葉や聖書のみ言葉を理解できるよう、力を与え、神様の愛を注いでくださっているのです。
世界は今、新型コロナウィルスや戦争という大きな問題を抱えています。北朝鮮はミサイルを盛んに撃ってきますし、先進国であるアメリカからは銃の乱射事件のニュースが頻繁に届きます。日本でもコロナによる生活苦や少子高齢化の問題は非常に深刻です。生きていても良いことはないとばかり引きこもったり、自らの命を絶つ人も大勢います。
私たちも、もし信仰を持っていなかったなら、生きる意味を失ってしまうかもしれません。しかし私たちは主イエスを信じるものとして、イエス様自ら選んでくださった存在です。世の不条理さえ、祈りに変えつつ、聖霊の導きによって歩む力が神様から与えられているのです。
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生みます。そしてその希望は私たちを欺くことはありません。何事にも失敗を恐れず、一人で失望しないで、ともに祈り合いながら進んで参りましょう。聖霊の導きによって歩む私たちには神様の愛がいついかなる時にも注がれているのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿