マルコによる福音書第1章12節-13節、2018年2月18日(日)、四旬節第1主日礼拝、(典礼色―紫―)、創世記第9章8節-17節、ペトロの手紙一第3章18節-22節、讃美唱25(詩編第25編1節-9節)
説教「偽りなき人生を歩むために」(マルコによる福音書第1章12節~13節)
今日は、レントに入っての最初の主の日の礼拝です。2月の第3日曜日でもあり、飯田教会では特別伝道礼拝の日でもあります。月に一回、何とかして、私どもの家族や知人・友人をこの礼拝の場に迎えたいと思ってのことです。
さて、レント、四旬節、受難節ともいわれるイースター前の日曜日を除く40日間の大切な時期が、先週の水曜日、2月14日の「灰の礼拝」の夕べから始まり、先週の変容主日の白から、聖壇やストールの色は、主イエスの血の色、あるいは十字架につく前に着せられた緋色の衣を表す紫に変わっています。
この時期は、古代の教会の時から、洗礼志願者が、イースター、復活祭に洗礼を受けるための準備の期間として大切にされてきました。飯田教会ではまだ、今年のイースターに洗礼や堅信礼を受けたいという申し出は受けていませんが、そのような希望を出す人が一人でも出て来ることを、心より祈っています。
さて、四旬節第1主日に、毎年与えられる福音の個所は、「40日の荒れ野の誘惑・試み」と言われる個所であります。
今年は、3年サイクルのB年で、マルコによる福音書第1章12節と13節の異例ともいえる非常に短い個所が与えられています。
また、第1朗読は、創世記から、ノアの箱舟の記事が挙げられ、そこでは、ノアの洪水の後、主なる神が、ノアの箱舟に乗った8人とすべての生き物とに対して、もう二度と地上の人間や被造物を呪うことはしないと契約をし、そのしるしとして、虹を与えると約束されています。
第2の朗読、ペトロの手紙1からも、ノアの箱舟について言及し、あの洪水は、主イエスの洗礼をあらかじめ示したものであり、私どもの受ける洗礼とは、肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることであると説かれています。
さて、今日の福音の出来事は何を意味しているのでしょうか。それは、非常に短く、主イエスが荒れ野に導かれたことの意味と秘密について語っております。今日の説教の題を「偽りなき人生をあゆむために」と付けておきましたが、この日の出来事に、私たちの人生が真実なものとなる鍵が隠されていると言っても過言ではないのです。
今日のみ言葉は、もとの文をそのまま、訳しますと、以下のようになります。「そして、すぐ、かの霊は、彼を荒れ野へと追い払う。そして、彼は、サタンによって試みられながら、40人間ずっとおられた。そして、彼は野獣どもと一緒におられた。そして、み使いたちが、彼でもって仕えていた。」
まことに、簡潔であっけないほどです。しかし、これは、主イエスの来られた意味を、すべて表しているかのようにすさまじいみ言葉であります。
「そして、すぐに」とは、主イエスの洗礼の出来事のすぐのちに直ちにということであります。天が裂け、聖霊が下り、天から、あなたこそ、私の愛する子、私が喜ぶものである」と主イエスの洗礼のときに起こった出来事に続いて、すぐに出来事が続いているのであります。
神のみ霊は、主イエスを、荒れ野へと追い出すのであります。荒れ野とは、いかなる場所でありましょうか。それは、人が生きていけないような過酷な場所であります。出エジプトの民が40年間さまよい、神に不平をつぶやき、主のご意志に従順に従えなかった場所であり、その期間でありました。
主イエスはその人生の荒れ野、孤独、神との疎外された状況、生死の過酷な荒れ野へと40日間、聖霊によって投げ込まれるのであります。
そして、サタンによって、そその間試みを受け続けられるのであります。サタンは、人間を告発するもの、そして、神のご意に敵する者であります。主イエスは、人間の身になられたが、一度も罪を犯さなかった唯一の方であります。
その方が、私どものために、私どもが直面しますあらゆる苦悩、試練や誘惑に向かい合われたのであります。
マタイやルカとは違って、マルコでは、この40日間の中で、主イエスはサタンに打ち克たれ、サタンはここで離れ去ったとは書かれていません。
主イエスの全生涯は、人を神から引き離そうとするサタンとの闘いの継続であります。
今日の出来事は、主イエスの洗礼に引き続いて、ただちに起こっています。主イエスの洗礼によって、私たちも同じ主イエスからの洗礼に与り、神の子とされています。レントのこの時期は、私たちが受けた洗礼を思い起こすべき時でもあります。マルティン・ルターは、大教理問答書の「洗礼について」の中で、私どもの洗礼は、生涯日ごとに思い起こし、受けるべき洗礼であると言っています。そして、それは主イエスが今もなお、私たちの受けるあらゆる試み、誘惑にあって、主イエスが共に戦ってくださっているということであります。野獣たちがひしめく、私たちの人生の荒れ野にあって、主が先だって、たとえ死の陰を歩むときも、この方が共に導いて下さっています。偽ることのない人生を歩むために、私どもの弱い力や知恵によるのではなく、私どもの罪を担うために来られ、十字架につき、死んでよみがえるために来られた神の独り子と共に歩むことが、この日の出来事によって私どもの一人ひとりに約束されているのであります。それを信じて主に従う日々を歩んでいきましょう。アーメン。
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