2026年6月21日日曜日

「厳しさの中に」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第4主日礼拝(2026年6月21日)(緑)

エレミヤ 20: 7~13 (旧1214)   ローマ 6:1b~11 (新280) 

マタイによる福音書10:24~39 (新18)


 本日の福音書には、イエス様から12弟子たちを宣教に派遣するにあたっての、厳しい言葉が記されています。26節には「人々を恐れるな」、38節には「自分の十字架を負え」、39節には「自分の命に執着するな」といったことが書かれています。


 こうした言葉は、受け取る人の人生経験や年齢によって、響き方が違うかと思います。恵まれた環境に育った若い人は「恐れるな」と聞いても「私は何も恐れていない」と答えると思います。しかし失敗して何度か厳しい批判の目に晒されると、「誰も恐れない」、「自分は自分だ」とはなかなか言えなくなります。


 しかし年齢を重ねると、家族を守る厳しさ、仕事を続ける厳しさ、病気や老いと向き合う厳しさ、大切な人を見送る厳しさ等を経験します。重い病気を経験したりすればなおさら、命は自分の力ではどうにもならないことに気づいて、失うことの恐ろしさに怯えるようになります。そんな自分の無力さに気づく時ようやく「命は、自分で守るものではなく、神に委ねて生きるものなのだ」と理解するのです。


 イエス様は39節で「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る」と言っておられます。「命を失う」とは、自分の命を粗末に扱えという意味ではありません。そうではなく、自分中心の狭い価値観の中で生活し、その立場を死守しようとすれば、かえって命を縮め、神様からも遠くなってしまう、と解釈することができます。


 「私のために命を失う者」、つまりイエス様のために自分の命を投げ出そうとするものは、神様の持つ広い見識や価値観を自分のものにすることができて人生が豊かになる、と言う意味も込められています。


 また、ここで言う「十字架を負う」とは、死刑になるような犯罪を犯せ、と言う意味ではありません。また世間でよく使われる「避けられない宿命」を意味するわけでもありません。イエス様の言われる十字架とは、自分の欲望や都合を優先させないこと、そしてイエス様の教えに誠実に従う時、世間から批判されても、折れてしまうことなく、生き続けなさい、と言う意味です。


 若い頃は、「強くなければならない」「迷惑をかけてはいけない」と生きてきました。しかし、若いものには負けまいといくら頑張っても、若い頃のようには働けず、思うように体が動かないこと、人に頼らなければならないことが増えていきます。


 そんな弱さを認めるとき、人は初めて神がそばにいてくださり、支えようとしてくださることに気づきます。素直に寄りかかるならそこにあるのは、神の確かな腕です。厳しさの中にある「優しさ」と「命」。イエス様の言葉は厳しく聞こえます。しかし、その厳しさの奥には、深い人間理解と優しさがあります。


 キリスト教のある教派は、信仰を持てば強くなれて、人生の成功を掴むことができて、沢山の人を従えて、偉くなれる、と教ています。聖書の解釈にはそう言う側面もありますが、今のアメリカの福音派と呼ばれる人々の中には「人生の成功は信仰によって掴み取れ」と言う幻想に酔っているように見える人がいます。「神に捨てられたから負け犬になるのだ」と決めつけているように見えます。しかし、いつまでも若く成功し続ける人などいません。そしてイエス様はそこに人間の幸せはない、と言われるのです。


 カトリックやルター派には、「弱くされたもの、ちいさくされたものの福音」という信仰理解があります。神様は常に社会の「小さくされた者たち」の側に立たれる、と言う考え方で、力を持たない者たちに積極的に寄り添いなさい、というイエス様の教えです。


 私たちがこの姿勢を貫こうとすると、お人よしとか偽善者とか呼ばれ、批判に晒されることもあります。しかし、社会的地位や名声、経済的成功を手に入れるために人を傷つけ、蹴落として生きようとすることを神様は望まれません。


 キリスト教伝道は愛の奉仕で始まり、愛の奉仕で終わるものだと私は思っています。しかし、世間の人はなかなかその愛に気づきません。しかし、まれにそこに愛に気づく人が現れて、共に生きることを喜びにした時、その共同体は神の御心、愛の共同体としてひと回り大きくなることができます。


 日本のキリスト教は、伝来当初から苦難の連続で、第二次世界大戦前も後も、沢山の困難がありました。戦争責任の問題や、地域社会との土着化、信仰継承等、もう十分に戦い、十分に守り、十分に生きてこられました。日本全体の人口ピラミッドが崩れ、教会に人が減り、「どうやって維持するか」ばかりが話題に上る昨今です。しかしこれからは、委ねる人生へと招かれています。神様に委ねる、人に委ねる、弱さを委ねる、未来を委ねる。


 誰かに任せられるものではない、それでは無責任だ、と思いがちですが、振り返れば、私もあなたもそれぞれの時代に委ねられたものとして今ここに立っています。


 イエス様が伝道を弟子たちに委ねたように、未来の教会をを引き受ける者たちの数が少なく、その信仰が不完全に見えても、委ねることを信仰としてまいりましょう。

 これから数十年もすれば、ここにいる大人たちは皆、地上にはいません。しかし神の手の中で、永遠の命を与えられ、安心して満たされていくのです。


 本日の説教のタイトル、もしかしたら、牧師から厳しい言葉を浴びせられ、文字通り「お説教」をされるかもと思って身構えた方もおられるかも知れません。しかし厳しい言葉は、すでに聖書の中に、イエス様の御言葉の中にあります。そしてあなたが積み重ねてきた信仰生活によって、すでに心に中にあるのです。


 あなたを育んだ厳しい言葉を心から受け入れ、あなたを抱きしめる神の優しさを見いだせる人は幸いです。その優しさの中で、あなたの命は、今日も、永遠へと続いていきます。


ブログを書いている今、外は雨

梅雨だなあ、というお天気です

ところが、雨が上がって日がさすと

とんでもない強い光に目が眩みます


この写真の花はモナルダとかベルガモットとも呼ばれる園芸品種です

松明花(タイマツバナ)と言う別名もある通り

強光線に負けずまさに「松明」といった力強さです



このタイマツバナは

現在園舎が建っている場所が空き地だった時

雑草だらけなのを見ていられず

「植えっぱなしで大丈夫で華やかな植物」を選んで

何色か育てたものです




写真に写っているのは紫花ですが、これも綺麗です


整地するとき、全ては鉢上げできないので

せめて赤花だけでも、と株分けして

牧師館で管理していました

やっと教会周りが落ち着いて来たので

ひと月ほど前、地面に下ろしました

鉢に収まっている間は今にも消えてしまいそうだったのですが

地植えにするとあっという間に繁り始めました


伸び伸び育つ植物を眺めるのは良いものです

人もこんなふうに伸び伸びできるよう

そんな場所の一つとして教会が用いられますように

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