顕現後第2主日礼拝(2026年1月18日(日)(緑))
イザヤ書49章1―7節(旧)
Ⅰコリントの信徒への手紙 1章1-9節
ヨハネによる福音書 1章29―42節(新)
以前、他の教会の信徒さんから伺った話なのですが、自分がこの教会に来たのは、たまたま青年時代に仲間達と教会に集まることが流行って、仲間の多くは教会から離れてしまったが、自分だけはたまたま進学先にも、就職先にも教会があったので礼拝や教会の集会に出て、たまたま昔からのクリスチャンの家系の方と結婚をして、子ども達はそれぞれ独立し、今、自分は教会のお役に立てることが出来ればと思うようになっていると。
こんなふうに「私が教会に来るようになったのは、たまたま」と言われる方が多いのです。「たまたま来ました」と連呼され、まるでそんなふうに言うことが謙虚さであると考えているようで悲しくなるのです。
皆さんお一人お一人が教会に来るようになったのは、決してたまたまではありません。神様があなたを招かれたからであり、つまりは聖霊の招きがあったからなのです。自分で教会に来て、自分で教会につながり続けているのだ、と思い込んでいるなら、それはあなたを愛し、尊い犠牲を払ってまでもここに招いた神様を悲しませ、あなたに働きかけ続けている聖霊の働きを無視していることになるのです。
クリスチャンや教会員が、自分のことを会社や何かの組織の構成員と同じだと考え、神様に招かれて結び合わされている、と言う自覚を持てない時、自分の都合や損得感情で礼拝に来るのをやめ、好きなように行動するでしょう。「たまたま来た」と言う言葉は、「自分優先でやめて構わない」と言う恐ろしいニュアンスを含んだ言葉だと皆さんには知っておいていただきたいのです。
さて本日の福音書は、洗礼者ヨハネがイエス様にヨルダン川で洗礼を授けた時の様子を語っています。
この福音書を書いたのは、イエス様の弟子のヨハネです。ヨハネは自分を取り巻く世界に納得がいきませんでした。ローマ帝国に押さえつけられ、宗教指導者たちは建前ばかりで保身や権力闘争に明け暮れている。信仰も宗教も国家も指導者も信用できないのです。洗礼者ヨハネなら、この世界をよくしてくれるに違いない、と言う思いで弟子となったのでしょう。
ところで、イスラエルには神様がいつか救い主を遣わして国を建て直してくださる、という信仰がありました。イスラエルは神に愛される国だから、滅んでも滅びない。ただし、そのためには深く悔い改め、律法に定められた生贄を捧げることなど、いくつかの条件が旧約聖書に記されていたのです。
ヨハネ福音書では、他の福音書の描写とは異なり、洗礼者ヨハネがイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と紹介しています。そして彼こそ「神の子」である、と断言したのです。
しかし、この神の小羊というのは元々神様に捧げる生贄を意味する言葉です。イエス様がお生まれになる1000年以上も前、イスラエル民族がエジプトから脱出する時、聖なる子羊の血を門に塗ることで神様への信仰を表し、無事にエジプトを脱出できたという史実があります。
この世の罪を帳消しにするためには、聖なる小羊を捧げる必要があります。洗礼者ヨハネはイエス様を見た時、この方こそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と信じた言葉を口にしたのです。しかしそれを聞いた人々はすぐには理解することはできませんでした。「イエス様こそ、我々の罪を神さまから許していただくために犠牲者になるのだ」という意味だと知るのはまだしばらく後のことだったのです。
35節に「洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒にいた」とあります。読み進めますと、この二人の弟子のうちの一人が福音記者ヨハネであり、もう一人がのちに12弟子の一人となったアンデレ、つまりペトロの弟であることがわかります。
洗礼者ヨハネは歩いておられるイエス様を見つめて、アンデレとヨハネに向かって「見よ、神の子羊だ」と言います。するとそれまで洗礼者ヨハネの弟子であった二人は、吸い寄せられるようにイエス様の後をついていきます。
やがてイエス様が振り向いて二人に「何を求めているのか」と問いかけられたので、彼らは「どこに泊まっておられるのですか」と問い返します。これは元の言語から考えると「あなたが招いてくださるなら、あなたに繋がりたい」と言う意味になるようです。それに対してイエス様は「来なさい」と答えて二人を招きます。これがヨハネとアンデレがイエス様の弟子となった瞬間でした。
ヨハネがここで伝えたかったのは、一見自分達から積極的に弟子入りを願ったように見えるけれど、実はイエス様の方が、自分たちを見ておられ、この世のあらゆる疑問、不条理に苦しむ自分達の思いを見抜き、ご自分に繋がるようにと招いてくださったのだ、と言うことなのです。
聖霊の力をいただき、イエス様に繋がって、改めて世の中を見るとき、世の中の醜さが鮮明に見えてくることがあります。自分の目や心を偽れなくなるからです。それは辛い事ではありますが、そうしたものは全て神様ご自身が私たちに与えたものであり、神様から私たち、そしてその先へと繋がるものを根こそぎ救うために、私たちを用いるために与えられた力なのです。
私たちの歩むこれからの道は、やはり苦難はあり続けることでしょう。けれどもわたしたちには、神様の招きがあり、私たちを見つめておらえるイエス様が、私たちに「繋がりなさい」と声をかけてくださり、手を握って勇気を与え、なすべきことを示してくださいます。
神様が与えてくださる招きに応えながら、歩んでいきましょう。なんで私だけ、と苦しみを覚え犠牲になっている、と感じる時には、主イエスもかつて同じ道を歩まれ、今も私たちの前を歩いてくださっていることを、私たちの誇りといたしましょう。
昨日は今年最初の土曜学校
13人のお友達が集まってくれました
礼拝では31年前に起きた阪神淡路大震災の事も
し腰お話ししました
工作の時間は毛糸のポンポンを使った
ふわふわうさぎ
みんなかなり苦心しましたが
可愛いうさぎが完成しました
代表して4人のお友達の作品をご紹介
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| 次は2月21日です 予定しておいてくださいね |


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