聖霊降臨後第11主日礼拝(2025年8月24日)(緑)
イザヤ書58章9b―14節(旧 1157)
ヘブライ人への手紙12章18―29節(新418)
ルカによる福音書 13章10―17節(新124)
本日読みましたルカ福音書には「腰の曲がった女性の癒し」が記されています。安息日にイエス様が会堂で「神の国」についてお教えになっていた時、体の不自由な女性に目をとめられます。イエス様は彼女の苦しみに心を寄せ、一刻も早く病から解放してやりたいとお考えになります。
一方、彼女は病に取り憑かれて腰が異様にも曲がり始め流と同時に周囲から「あの女はサタンに取りつかれたのではないか」と陰口を言われるようになったでしょう。それが18年も続いたのですから、心が折れ、すっかり卑屈になっていたとしてもおかしくありません。自分のようなものをイエス様が相手にしてくださるだろうか、もしイエス様に断られたら後がない、という不安もあったでしょう。
そんな追い詰められた彼女の心の内をイエス様はすぐに見抜きました。ですからイエス様は彼女が申し出る前に自らお話を中断して声をかけ、ご自分の近くに呼び寄せたのです。
イエス様が「婦人よ。病気は治った」と言って曲がった腰に手を置かれると、たちどころに腰がまっすぐになります。彼女は神様が病から解放してくださったことを心から感謝し、周りの目も気にせず賛美したのです。
礼拝のために会堂に集っていた人々はその奇跡を目の当たりにして大いに驚きます。そこにいた皆が皆彼女を差別していたわけではないでしょうから、この奇跡に感謝し、彼女と共に喜ぼうとした人もいたはずです。しかしその雰囲気に冷水をかけるような発言をしたのが、この礼拝の責任者である会堂長でした。
会堂長は、この癒しが行われる直前まで、イエス様の話に感動して聞いていたことでしょう。「さすがはイエス様だ、お話を聞いていると神様の愛が近くに感じられるように思える。」そんな感想さえ抱いていたかもしれません。
ところがイエス様がいきなりお話を中断して、まさにその「神様の愛」を目に見える具体的な奇跡としてお示しになったのです。女性が癒されて感謝の讃美した時、会堂長は素直に感動することがnoできませんでした。
会堂長は地域の世話役を務めることも多かったので、彼は18年にも及ぶ彼女の苦しみを近くで見ていたはずです。しかしいざ彼女ギヤされた時、一緒になって喜んでやることもなく、自分が責任を持つ礼拝の礼拝秩序が大いに乱されたことへの怒りが先に立ったのです。
残念なことに、神様の業が目の前で行われても、信仰に直結しないことはよくあります。礼拝の中で「いい話を聞いたなあ」「神様は愛なんだなあ」と感動しても、自分の価値観と一致しない愛の業は認めることができない方もたくさんいます。
私事ですが、施設や団体に招かれてキリスト教の話をする時、気にかかる人が目に止まることがあります。思わず関わろうとすると、「それは後でやってください」と注意されるのです。会を取り仕切っている人から見れば私の行動はわがままに映るのでしょう。その方の立場もわかるので、会合に支障がないように予定通りお話しするしかありません。
もちろん、そこにいる方々皆がご自分の判断で席を立って、良かれと思うことを始めてしまったら、会はメチャクチャになりますから、神様から与えられたタイミングや秩序に従う判断力は必要です。ですから、会堂長の怒りもわからないわけではないのです。
そもそも、安息日というのは、ユダヤ教を信じる人々にとって、天地創造の最終日、神様が休まれたから休むという創世記の教えそのものです。
また、紀元前2世紀、マカバイ戦争という大きな戦争が起きた時、ユダヤ教徒は安息日に戦うことを拒否し、多くの犠牲者を出しました。しかし結果的に戦いに勝利した、という歴史があります。
そうした歴史体験を持っているので、ローマ帝国に支配されていてもなお、ローマの神々には目もくれず安息日を守り続け「神様に忠実に信仰生活をおっくっていれば、必ずイスラエルを独立に導いてくださる」と信じていました。安息日の礼拝はそれほど大切な宗教儀式と認識されていたのです。会堂長としては律法に沿った厳格な礼拝を行うことこそ神の前に正しいことで、個人の癒しなどは後回しにするべき、という感覚でした。
しかしイエス様は、安息日は「守っているから神様に愛される」という交換条件のようなものではなく、あらゆるものから解放された自由の日、天の国の前味を味わう日なのだ、とおっしゃいます。病気であっても、苦難があっても、神様の国に行けば必ず自由になる、癒される。イエス様はそのようにお示しになり、「神様はサタンに縛られて体や心の自由を奪われている人の苦しみを放置したりなさらない」と示すために、今この時、皆の前で女性を癒されたのです。
現代では、こうした教えを真正面から受け止め、信じ、伝えるクリスチャンが少なくなったようにも感じます。胡散臭く思われるのが嫌で、イエス様の奇跡を素直に信じられず、合理的な解説をつけ用途する人も増えました。
宗教を信じているといえば周りから嫌がられるかもしれない、それが怖くて、もう一歩聖書の世界に分けいることができず、「教会に行ってはいるけれど、そんなに真剣に信じているわけではない」などと言い訳をしながらも、辛うじて信仰に繋がっていられるとしたら、イエス様の方があなたを離さず、言い訳だらけ、ごまかしだらけの不自由な信仰生活から解放してあげたいと願っておられるからです。
私たちは世の中を支配する富や権力に振り回されることをやめて、愛と自由と解放について共に思い巡らし、天の御国を仰ぎながら主を讃美しましょう。その時、私たちの上に安息日の癒しは必ず行われるのです。
ルーテル幼稚園の新しい後援会を作ることになりました
宗教法人から学校法人に代わった時
以前の講演会を解散したため、再スタートです
教会の役員会の中に「準備委員会」のようなものを置き
最初の仕事として募集要項のチラシを作りました
多くの方に関心を持っていただければ幸いです
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