四旬節第一主日礼拝(2025年3月9日)(紫)
申命記26章1~11節(旧 320)
ローマ10章8b-13節(新 288)
ルカによる福音書 4章1-13節(新107)
聖書の内容について、納得できる「科学的説明」を求める人々が多くなりました。中にはまるでインチキ商法を暴いて楽しむかのように、信仰に生きている人を非科学的だ、こんなことをよう信じられるなあ、とバカにする人もいます。
こんなふうに言われたら、カチンと来てなんとか言い返したい、と思うでしょうか。もしくは口論になることを避けるために、自分の信仰を曲げたり卑下するするような態度をとってしまうかもしれません。
しかし、これこそが「見えない迫害」なのです。明治時代のインテリクリスチャンや戦後すぐの熱い時代には、馬鹿にされた時は、イエス様への信仰を証する機会だと喜んで、一晩中でも反論し続けた、などという逸話もあります。しかしそういう人は現代クリスチャンには少なくなり、私たちもなかなかそこまで行きません。
それはイエス様のことをどこか遠い存在と捉えているから起きるとも言えます。もし、赤の他人から自分の親しい友人や家族について、適当な悪口を言われたら「よく知りもしないのに」と反論し、なんとかして撤回させようとするでしょう。しかしイエス様や神様のことだと、言い争うのを恐れてしまいます。
これは別の言い方をするなら「私はイエス様よりも他の人との人間関係を優先します、イエス様のことを悪く言われても、トラブルが嫌なので反論しません。人と調子を合わせてもイエス様は赦してくれて、お祈りを聞いてくれるはずです」という感じになり、非常に傲慢で身勝手な考え方であることに気付かされます。
しかし、イエス様はこれほど傲慢な自分のために十字架で命を捨てて、地上の命が終わったなら天の国に迎え入れてくださる、永遠の命の約束が与えられている。私たちはそれを学んだ上で洗礼を受けています。だからこそ、この世は神の子イエス様と自分を引き離す誘惑に溢れていて、そこには悪魔が関わっているのだ、ということをしっかりと学んでおかなくてはなりません。
本日の聖書の箇所で、イエス様が、聖霊の導きで、荒野に40日とどまり、悪魔の誘惑を受けられた出来事は、どうやったら誘惑に遭わないでいられるか、という方法ではありません。
生きている限り、信仰から私たちを引き離そうとする誘惑は日常の中にたくさんあります。それを知った上で、イエス様への信仰をもった者はどう心構えし、どう生きるか、といったことをイエス様ご自身が示されたと言えるでしょう。
マタイ福音書にもマルコ福音書にも、イエス様は救い主としての働きを始める前に荒野で試練を受けられた、と書かれています。イエス様は弱くはありませんが、悪魔からの誘惑は実に巧妙でした。まずイエス様の空腹につけ込んで、「石をパンに変えることが出来たら、貧しい人、飢えている人をどんどん助けることができるだろう?そういうことをやったらどうだ?」と話しかけてきます。
しかしイエス様は、それは一時しのぎにしかならず、本質的な解決に結びつかないことをご存知でした。人は一度簡単に欲望を満たすことを覚えると、神様への感謝をそっちのけに「もっともっと」と望むようになり、止むことのない欲望によって自らを滅ぼすことになるのです。
ですからイエス様は、「パンよりももっと大切なのは神様の言葉だ」と聖書の神様の御言葉を用いて悪魔を退けられます。しかし悪魔は懲りることなくイエス様に対して次の誘惑をしかけます。悪魔を拝めば、絶大な権力と繁栄が手に入る、という誘惑です。
もし権力を持って自分の命令に人々を従わせ、経済的に楽になれば幸せになれると思うかも知れません。しかし、権力を手にした人間が次第に独裁者に変わり、悪魔に魂を売り渡したとしか思えない政治を始めることを私たちは歴史を通して知っています。しかし本当に世界を支配しているのは、悪魔ではなく神様なのだとイエス様は知っておられましたから、再び聖書の言葉を用いて悪魔を退けます。
すると次に悪魔は聖書の言葉を逆手にとって、わざと間違った解釈をイエス様にぶつけてきます。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りてみればどうだ、あなたはちゃんと守られていると聖書に書いてあるではないか」と言うのです。
もちろんイエス様はそんな手には乗りません。悪魔がわざと自分勝手な解釈で御言葉を引用していることを指摘し、正しい解釈を示され、悪魔を退けたのです。
それにしても、よく知らないままに聖書の御言葉を引用し、自分勝手な行動の根拠にするのは非常に危険な誘惑です。私たちも自分の言動を正当化しようとするときなど、ついついやってしまうかもしれません。しかし、神様の霊の力に導かれているなら、学者のような深い理解はできなくても、「この御言葉は、神様はそんな意味で言ったんじゃないと思う」という感覚が与えられるはずで、信仰が磨かれるにつれて表面的な解釈に振り回されることは少なくなるのです。
キリスト教の教えは、難しく捉えればどこまでも難しくなりますが、神様の愛はとてもシンプルです。地上の命が終わった後は私が面倒見てあげるから、それを信じて、どんな時も自分と誰かの幸せを見出しながら生きてほしい。悪魔は神様からあなたを引き離そうと誘惑を仕掛けてくるけれど神様との交わりの中に生きようとするなら、あなたは負けない。間違いそうになったら聖書の御言葉に頼りなさい。
イエス様をお手本に生きていくなら、キリスト者である私たちに求められている事はそんなに複雑ではないのです。
複雑な現代社会にあって、思い煩いは日々山のようです。私たちも素直な信仰生活を送ろうとしても水をさされっぱなしかもしれません。それでも神様が私たちを愛し、このような時代の中でも果たすべき役割があるのだと言ってくださいます。与えられる恵みを見失わず、この世にある誘惑に引き込まれず、イエス様の教えてくださる道を大切にして、歩んで参りましょう。
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