2025年3月2日日曜日

「山上の変貌」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・主の変容礼拝(2025年3月2日)(白)

出エジプト34章29~35節(旧 152)

Ⅱコリント3章12-4章2節(新 328)

ルカによる福音書 9章28-36節(新123)


 「心の闇」という言葉は凶悪な犯罪に手を染めた犯人の動機を掘り下げたりするとき、報道番組などでもよく使います。しかし今の時代、本当は誰でも闇を抱えているのかも知れません。世界の子どもたちは、人格形成に必要な愛とか平和、信頼といった穏やかなものではなく、不安や恐怖を煽るものに囲まれているように思えます。貧しい地域や紛争のある地域ではなく、裕福な地域の子どもたちも血生臭い事件を起こします。本来なら愛や平和の発信地であるキリスト教会が、もっともっと神の国を示すことはできないものかと、最近は特に強く思うのです。


 本日ご一緒に読みました聖書箇所は、復活祭を迎える40日前には必ず読むように指示されているところです。イエス様が主だった3人の弟子だけを連れて山に登り、そこで光り輝くお姿に変わるのです。それを通して弟子たちは改めてイエス様の本当のお姿を心に刻むのです。そして礼拝もまた、イエス様は唯一の神様であることを、改めて心に刻むよう指示されているのです。


 弟子たちはイエス様をしたい、尊敬していましたが、イエス様と共に苦しみや苦労を担っていくという意識は低く、イエス様が素晴らしい指導者として君臨して社会を変えてくださったなら、それについて行って高い地位を得たいという思いが芽生えていたようです。イエス様はそのような弟子たちの思いを見抜いておられましたが、自らスカウトした弟子たちが、共に労してくれることを望んでおられました。そしてこの日、将来的に初期にキリスト教会を担っていく弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを伴って、山に登られたのです。


 この出来事はマタイ福音書とマルコ福音書にも記されていて、3つの福音書全てに「イエス様が祈っているうちに、顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記されています。ルカ福音書は弟子たちの様子にもう少し詳しく触れていて、ペトロたちがすっかり変貌したイエス様のそばにいながら強い眠気に襲われ、必死で眠気に耐えていたと記しています。そして弟子たちはイエス様の他に2人の人がそこにいるのを目撃します。それは旧約聖書の英雄モーセと預言者エリヤでした。


 モーセは出エジプトの指導者で十戒を授かった人物、エリヤはイスラエルの国の信仰の指導者です。しかし、彼らがイエス様のところに現れた2人がイエス様と話していたのは、エルサレムで遂げようとおられる「最期」についての話、つまり「イエス様はどのようにして死ぬのか」についてでした。


 ところで、日本語でも英語でも一つの単語に二つ以上の意味がある多義語がありますが、旧約聖書のヘブライ語にも同様のケースがあって、例えば「はこぶね」と言う言葉、ノアの箱舟の「箱舟」には、棺という意味があります。棺というものは、遺体を治める箱ですが、その「箱」と「はこぶね」は、実は同じ言葉です。


 そして、人が死ぬ「最期」という言葉には「脱出」という意味があります。「脱出する」ことと「死ぬ」ことが同じ言葉というのは興味深く、ユダヤ人民族の歴史から培われたいわゆる死生観に関係しているようです。


 ユダヤの人々は紀元前千数百年も前、飢饉によってエジプトに移住し、栄えますが、やがて生粋のエジプト人から迫害を受け、奴隷の身分となります。ついには生まれた子が男の子なら殺すように命じられるなど、苦難を味わいます。しかし、神様からリーダーに任じられたモーセによって、約束の地へと民族をあげて脱出します。その旅路には40年の年月が費やされたと記されています。


 神様のご計画によって、その旅路のうちに不信仰な人々は死に絶え、信仰によって結ばれた民だけがヨルダン側を超えて約束の地に入ることができたと記されています。新しく生きるために古い命を脱ぎ捨てる、その象徴のようなものが出エジプト記とその続きであるヨシュア記には溢れています。しかしなぜかモーセ自身は約束の地に入ることはなく、民衆より一足早く神様の国へと旅立ちました。ついでの説明のようになりますが、預言者エリヤは、聖書の中でただ一人、死ぬことなく天国に迎え入れられた人物として有名です。


 そしてここが重要なのですが、この二人は単なる英雄というだけでなく、律法と預言、つまり旧約聖書そのものをギュッと要約した人物としてユダヤの人々に認識されてきました。その二人がイエス様と共にいるということは、イエス様こそ旧約聖書が預言し、指し示し続けてきた救い主であり、神の御子、王の王であることを意味していました。


 イエス様は、救い主であると同時に、天国への導き手を兼ねているので、エリヤのように死なないで天国に帰るのではなく、十字架という残酷な死に方を経ても神様の身元に行けるのだと、これらのちの世代の人々に教え導く必要がありました。


 死ぬということはもちろん悲しい出来事ではありますが、出エジプトの民のように、この地上から脱出して、神の身元に旅立つ栄光の時、天国への凱旋の時なのだと、お教えになるために、将来キリスト教会を背負って立つことになるペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけにこの光景をお見せになったのでしょう。


 ただ、この時のペトロは大いに感動しつつも、3人がそこにいることの意味を理解し損ね、混乱して自分で何を言っているかわからないほどでした。そんなペトロに神様は「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」と言われます。


 これから先、どれほど大きな迷いや苦しみが襲ってくるかしれない、自分の人生が終わった、とか、もう何も信じられない程に追い詰められることがあっても、「あなたのために十字架にかかって死ぬイエスを信じ、迷った時にはその苦しみから復活するイエス様の存在を心に刻み直すように」。神様ご自身がそう語られたのでした。それが私たちの信仰であり、私たちが生きて営み続ける信仰の形であります。


 私たちは神様の計画の全ての意味や、自分の人生に何が起こるかを知ることはできません。しかし私たちはこの完成を喜ぶもの、神様の祝福に預かるものとして、信仰を持って歩み続けましょう。



現在の礼拝堂の様子です
緑色の屋根は本来ならメンテナンスが必要なのですが
予算不足で手がつけられませんでした
色褪せてはいますが、幸い雨漏りはないので
しばらくはこのままで行きます

奥に見える薄茶色の壁の建物は
幼稚園の職員室棟です



0 件のコメント:

コメントを投稿