顕現後第5主日礼拝(2025年2月9日)(緑)
イザヤ書6章1~8節(旧 1069)
Ⅰコリント 15章1-11節(新 320)
ルカによる福音書 5章1-11節(新109)
聖書の世界には「先生」と訳せる言葉がいくつかあります。その中の代表的なものが今日の福音書でペトロがイエス様に呼びかけるのに使った「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」というところです。これは「ラビ」という単語に当たり、プロとして何かを教える人に普通に使われる言葉です。
このエピソードはマタイ福音書とマルコ福音書にも記されています。比較してみますと、マタイとマルコはイエス様の「私についてきなさい、人間をとる漁師にしよう」という呼びかけに「すぐに従った」ことが強調されています。これに対してルカ福音書は、イエス様に従うまでのペトロの行動や心を詳しく記録しています。
まず湖の朝、空しく網を洗うペトロの姿がありました。魚一匹も取れないのは、こういう仕事の中ではたまに起こることかもしれませんが、うんざりした感情を抱えていたことでしょう。イエス様はそんなペトロに既に目を止めておられるのですが、ペトロの方は全く気づいていないようです。イエス様からお話をを聞こうと押しかけてきた群衆の騒がしさにますます気持ちが苛立ったかもしれません。
そんなペトロにイエス様が話しかけられます。「この人たちに話をするために、舟を少し漕ぎ出して欲しい」。ルカによる福音書では、イエス様とペトロはこの時が初対面ではありません。イエス様がガリラヤ地方で宣教を始めて少しずつ名前が知られるようになった頃、ペトロの姑が熱を出したことがあり、人々がお願いして癒していただいたことがあったのです。
そんな経緯もありましたから、ペトロは頼まれた通りに舟を出します。ペトロはイエス様の言葉を一番近くで聞くこととなりました。しかし、先ほどまでの空しく過ごした時間が消えて無くなるわけではなく、イエス様のお話は彼の耳に入ってきません。イエス様がどれほど希望に満ちた、励ましの言葉を語られても、「俺には関係ない、俺には意味がない」とふてくされて、つぶやいていたかも知れません。
やがてイエス様のお話は終わり、群衆は心満たされて去っていきました。それとは対照的に、イエス様の話を聞き終えたペトロの心には何一つ残るものはありませんでした。しかしイエス様はそんなことは関係ない、と言わんばかりに「さらに沖に漕ぎ出し、漁をするように」と命じられます。これはペトロにとって、意外な命令でした。網の手入れは終わっていますし、また空しさを重ねることには抵抗がありました。自分より年下に見えるこの人物は、どう見ても湖での漁の経験などありそうもなかったのです。しかしイエス様には逆らいきれない威厳がありました。
ですから、ペトロは「先生」と話しかけます。この「先生」という言葉の意味は、師弟関係を強く打ち出した言葉で、あなたの指示に従います、という思いが込められています。イエス様がシモンの姑を癒したとき、感謝はしているけれど、「イエス様は神の子だ」という信仰を抱くにはまだまだ遠いところにいたのです。
しかし、イエス様に従って舟をこぎ出し、教えられたところで網を降ろしたペトロは思わぬことを体験します。網を引き上げようとすると、今まで感じたことのない異様な手応えと共に大漁の魚が引き上げられてきて、網が破れそうになったのです。彼は大慌てで仲間を呼び、舟はかつてなかったほど魚でいっぱいになります。
漁師の性と言いますか、大漁に胸躍らせたペトロでしたが、我に帰るとあり得ない出来事に恐れ慄きます。こんなことができるのは人ではない。そう思った瞬間ペトロはイエス様に「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と叫んで平伏していたのです。ペトロがイエス様を「主よ」と呼んだのです。一般的な「先生」という言葉を使っていない。彼の意識が大きく変わったのです。
この「主よ」とは、ずばり「神よ」と呼びかけているのと同じです。ペトロは、イエス様が神そのものであることが分かってしまったのです。そのような方に自分はなんという失礼な言動をとってしまったのだろう、私はなんという罪人だろう。これはただではすむまい。と死ぬことまで覚悟したのです。ところがイエス様は恐れ慄くペトロに向かってまず「恐れることはない」とおっしゃったのです。
ペトロは今まで漁師としての誇りを持ち、家族を養って生きてきました。しかしそれと同時に、社会においては、紛争や政治的なぶつかりなど、ローマの支配の中であらゆるものがギスギスしていることに怒りを感じ、血の気の多いガリラヤの人間としては、自分の無力さに苛立っていたとも言えるでしょう。
そんな矛盾を抱えたペトロに向かってイエス様は「恐れることはない」と言われた後、「今からのち、あなたは人間をとる漁師になる」と断言されました。
この後、ペトロの他に、奇跡の漁に加わったアンデレ、ヤコブ、ヨハネを加えた4人は、舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った、と書かれています。「舟を陸に引き上げ」という言葉はここにだけしか出てこない言葉のようで、「退路をたつ」「後戻りしないよう自分の心に釘を刺す」といった意味になるでしょう。イエス様についていくことへの「不安」や「思い煩い」を陸に引き上げて、もうあれこれ心配しない、という意味なのです。
洗礼を受けた私たち一人ひとりにはこの時のペトロのように「イエス様についていく」と心に決めた日があったはずです。毎日生きるのに精一杯だった自分に、神様が「ついてきなさい」とおっしゃった。その時、本気でこの世の思い煩いを捨てる決意をしたかどうか、もう一度振り返ってみたいのです。
私たちは、かつてのわたしたちと同じようにあくせくして自分を見失っている人々にイエス様の救いを伝え、イエス様のもとに導く「人間を取る漁師」の役割が与えられています。人間が人間らしく生きるために、あらゆる人々をイエス様の元に集めることを使命として生きる、ペトロに、そして時を超えて私たちに与えられたのです。このことをもう一度深く胸に刻んで参りましょう。
2月の第3土曜学校は幼稚園の都合で遊戯室が使えず
思い切って集会室リリーで実施することにしました
ちょっと狭いですが、みんなでワイワイ楽しみたいと思います
このページをご覧になって参加を希望される方は
場所をお教えしますので、お問合せください
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