四旬節第5主日礼拝(2024年3月17日)(紫)
エレミヤ 31章31-34節(1237) ヘブライ人への手紙 5章5-10節(406)
ヨハネによる福音書 12章20-33節(192)
麦の粒は穀物であると同時に種でもあります。穀物としての粒のままであればずっと一粒のままです。地に落ちて死ななければ、というのは穀物としての役割を捨て、「種」になりきって土に埋もれるならば、状況は変わる、ということです。
種の殻は弾けて新しい芽が出、成長すると麦の穂ができ、ざっと15から25の粒がつき、穀物として利用することができます。このように元々の役割に固執せず、新たな命に生まれ変わることを「地に落ちて死んで新たに実を結ぶ」と理解することができます。
イエス様は麦の一粒が種となり、死んで復活する時、豊かな姿で蘇ることに喩えて、ご自身が一度死んで葬られることによって、世界中の多くの人々が、永遠の生命という豊かな実りを受けるようになる、とお教えになったのです。
ここに登場するギリシャ人たちは、どうやらイスラエルの人たちと同じユダヤ教に改宗した人々で、ユダヤの祭りに合わせて巡礼に来ていたと思われます。エルサレム神殿は、他宗教からユダヤ教に改宗した外国人のために礼拝場所を開放しており、そこは異邦人の庭と呼ばれていました。当時のギリシャ人は哲学的にものを考えるのが得意な民族でしたから、「命とは何か」「真理とは何か」と日頃から考え、その結果として旧約聖書の神に辿り着いたのでしょう。
神殿で礼拝していた彼らは、イエス様と共にいた弟子のフィリポの顔を覚えていたとみえ、彼にイエス様を紹介してもらえないかと頼み込みます。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」という言葉は真剣そのものです。ちなみにこの「お目にかかりたい」という言葉は、「信じたい」という言葉にも翻訳できます。
しかしユダヤ人の風習では、外国人とむやみに接点は持ちません。フィリポもまた、ギリシャ人をイエス様に紹介するかどうか自分だけで判断できないと考え、ペトロの弟アンデレに相談します。二人で考えた結果、話を握りつぶすのは良くない、ギリシャ人がイエス様に会いたがっていることはきちんと伝えて、判断はイエス様にお任せしよう、ということになったようです。
「一粒の麦」という御言葉は、フィリポたちに取り次いでもらったギリシャ人に向けられたのか、弟子だけたちに語られたのかはっきりしません。ただ、この御言葉はのちにキリスト教が広まっていくにつれてさまざまな民族が耳にし、受け入れられていきますから、結果的にギリシア人を含めた多くの異邦人に語られていくことになります。
くどいようですが、今が受難節であることを踏まえて、もう一度、聖書からしっかり一粒の麦の言葉を見ておきましょう。「はっきり言っておく」というイエス様のお言葉は原文では「アーメン、アーメン」となります。イエス様はこの御言葉を人々に伝え、覚えておいてほしいメッセージとしてお伝えになったのです。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとするものは、私に従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もそこにいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」
一粒の麦は、間も無く十字架の死を迎えるイエス様の遺言も取れます。しかし、それだけでなく、イエス様の弟子達に向けて、殻を破って生まれ変われ、というメッセージも込めておられるのです。
フィリポやアンデレは、以前であれば異邦人をイエス様に引き合わせるようなことはしなかったでしょう。しかしこの時彼らは迷った、すなわち、イエス様とギリシャ人を引き合わせることが自分達の役目であり、もしかしたらイエス様も喜んでくださるかもしれない、と迷いながらも考えたのです。
弟子たちは、普通のユダヤ人が外国人とは交流したがらない、という殻を自分から破り、一歩踏み出して伝道しようとした、その姿に、イエス様は一粒の麦のような姿をご覧になったのです。
もちろん、ギリシャ人たちがどうにかしてイエス様に直接教えを請いたくて、弟子達が異邦人と接触を嫌うことを知った上で、必死で頼み込んだ姿の中にも、一粒の麦を感じさせるものがあります。
つまりは、イエス様は弟子たちの変化と異邦人たちの変化を目の当たりにされ、数日後には十字架にかかるというこの時に、イスラエルの国でキリスト教が世界宗教になろうとしている予兆をご覧になったのです。
これは2000年前の出来事なのです。ここに教会の原型があり、そして未来がしっかりと記されているからこそ、私たちも同じように、色々な人に伝道していくことが使命ととして受け止めるのです。
イエス様が一粒の麦であったように、イエス様の弟子一人一人も、一粒の麦、そして、イエス様を求めたギリシャ人も一粒の麦です。そして、この教えを受け継ぐ私たちもイエス様を信じた一粒の麦です。
弟子達のように、自分が殻の中にいるという葛藤をうち破って、神の国の為に、未来の為に、人々の救いの為に、神様に示された誰かと受け入れあい、教え合うこと、それが神様の喜ばれる世界なのです。
「殻を打ち破れ」と命じられる神様は、いつも私たちと共にいてくださいます。私たちは安心して一粒の麦としての生涯を歩んで参りましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿