聖霊降臨後第15主日礼拝(2023年9月10日)
詩編 119編33-40節(960)
ローマの信徒への手紙 13章8-14節(293)
マタイによる福音書 18章15-20節(35)
神様は紀元前1000年以上昔のモーセの時代、ご自分の民に十の掟、「十戒」を与えられました。神を敬って生活の中心とし、父母を大切にし、殺さず、姦淫せず、盗まず、嘘をつかず、欲望のままに貪ってはいけない。今の感覚で言えば、当たり前のルールですが、欲しいものは奪い取り邪魔者は殺すことが珍しくなかった時代、非常に高い倫理観です。
イエス様の時代には、十戒をベースに生み出された律法は専門家たちによってんざりするほど細かくされていましたが、イエス様は「全ての掟は『神を敬い』『隣人を愛する』という二つに要約することができる」と言われました。
先ほど読んでいただいたローマの信徒への手紙13章でも隣人愛について触れ、「そのほかにどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」と教えています。
しかし、「隣人を自分のように愛する」ということは本当に難しいのです。良かれと思ってしたことでかえって相手を傷つけてしまうことは珍しくありません。傷付けた側の立場が上であったりすると、それ以上面倒な関係になることを恐れて、黙り込んでしまう人もいます。でもそれは本心ではありませんから、だんだん礼拝に来る気力も、奉仕をする気力も湧いて来なくなります。そして教会に来る人はどんどん減って、あとは消えるだけ、という状態になってしまいます。
人に影響を与える立場にある者ほど慎重に発言し、行動しなければならないのですが、この心構えがまた難しいのです。そのため、イエス様は「小さき者」「小さき者たち」を軽んじてはいけないと教えられました。
イエス様が「小さき者たち」と呼ぶのは、社会的に「無価値な者」や「経済的にどん底のものたち」を意味します。「障害を持っていて社会から爪弾きにされている人々」も、成長途中で上手に物事の判断のできない子どもや若者、その逆に高齢となって以前のように動けなくなった人々も含まれるでしょう。
世の中は、社会に有用なものを重んじ、お荷物となるものを切り捨てます。そんな風潮に染まって、「小さき者たち」の言葉を軽んじたり見下したりするのではなく、真摯に耳を傾け、その想いに共感し、常に新しい視点を持って生きていくことが神様の望まれる「隣人を自分のように愛する」ということなのです。
ただ、この生き方は世の中に逆らうことになりますから、理解を得るのは難しいですし、現にイエス様の時代もそうで「小さき者たち」は常に見捨てられ続けました。しかし、イエス様はあえて難しい生き方に挑戦され、私たちにも「行ってそのようにしなさい」と言われるのです。
しかしキリスト教会といえども、価値観の違いから教会内部でも愚かな間違いはたくさんあり、それをのちの時代に伝えています。一つ例を挙げますと、フィリピの信徒への手紙4章2節には、こんな記述があります。「エボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」。これは当時のフィリピの教会で、指導する立場にあった二人の女性が権力闘争のようなものを起こし、そのせいで教会内が混乱してしまったことを表しているのです。
なぜ二人の関係がこじれたのかはわかりませんが、この争いを治めるために、パウロは手紙の中にあえて彼女たちの名前をさらし、さらにはフィリピ教会の別の指導者に2人の間を取り持って助けてあげるように、と願ったのです。
エボディアとシンティケの二人が真実にキリストに繋がっていたなら、お互いの好き嫌いは脇に置いて、もう一度一致して宣教に当たったことでしょう。もしそうでなかったなら、どちらかは怒りと共に立ち去り、神様の教えからも離れていったかもしれません。
こんな時、私たちは一人ももれずに教会に留まることを願いますが、神様のご計画の中には、そうならないこともあるようです。と言いますのは、本日の福音書でイエス様は弟子たちに向けて非常に厳しいことをおっしゃっているからです。
「あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる」という御言葉です。簡単に言いますと、揉め事を起こしたとき、弟子たちの指導を受け入れようとしないなら、教会から除名しなさい、という厳しい教えなのです。
これは非常に重い責任を伴う役割でした。最初に教会を作った弟子たちは、職権濫用などしないよう互いに祈り、また、除名されるものが出ないことを願ったでしょう。しかし間違った教えを教会に持ち込んで混乱させたり、絶え間ない争いに人々を巻き込むものがいた場合は、痛みを覚えながら「教会から除名する」という教えも実行していったのです。彼らの苦しみもまた、聖書の中に記されています。
こんなふうにお話しすると、最初の頃の教会というのは清廉潔白な人たちばかりの、厳しい場所のように思えますが、そんなことはなく、彼らも私たちと同じように泣いたり笑ったりもがいたりしながら、教会生活を送った人々であったのです。
私たちの中心にはイエス様がおられ、生き方もイエス様が示してくださいます。一人一人はイエス様に集められたものであることを信じながら、詩篇119篇にあるように「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください」と心から祈ることができるのです。
今年度の「こども祝福式」は11月19日(日)に決まりました。
飯田市では伊那谷文化芸術祭という催しが
なんと11月の各日曜日に開かれます
「ルーテルキッズバンド」の中心メンバーが
いずれかの日曜日に
小学校の音楽活動としてそちらに参加する予定がありまして
その子がどちらにも参加できるよう、調整に手間取ってしまいました
やっと決まったと思ったら
もう一つ小学校の音楽の催しがあるそうで
そちらに参加するメンバーもいるとの連絡!
保護者の方もまだ日程がわからず
全員揃って賛美して欲しいのに!と祈りつつも…涙
教会学校のライバルは小学校行事?
ふとそんなことを思ってしまう
日程調整担当者なのでした(^^;)
0 件のコメント:
コメントを投稿