聖霊降臨後第14主日礼拝(2023年9月3日)
エレミヤ書 15章15-21節(1206)
ローマの信徒への手紙 12章9-12節(292)
マタイによる福音書 16章21-28節(32)
本日、読みましたマタイによる福音書の16章はイエス様の一番弟子であるペトロの成長に関わる、ドラマチックな記述です。ペトロは、ローマ皇帝を神として崇める町フィリポ・カイザリアで、イエス様に向かって「あなたはメシア、生けるキリスト」です。と告白しました。ペトロは「あなたは私にとって救い主キリストです」と信仰告白をしたのです。
このやりとりの説明に入る前に、ちょっとお話ししておきますと、ペトロの元々の名前は「シモン・バルヨナ」つまり「ヨナの息子シモン」と言いました。しかしこの時を境にイエス様は彼を「ペトロ」と名づけ、のちの時代の人々もそう呼ぶようになったのです。
「ペトロ」とは「岩」を意味します。イエス様は揺らぐことのない堅固な岩、その上に教会を建てると言われたのです。ここだけを読むならば、ペトロの信仰はもはや完璧、立派に完成した、と勘違いしそうです。しかし、そうではなかったことがそのすぐ後でわかります。
イエス様はご自身が「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」とおっしゃいました。つまり宗教的と政治の権力を握る人々から殺される、と弟子達に伝えたのです。するとペトロはすぐにそのお言葉を遮って「そんなこと言うもんじゃない」と諌め始めます。
この当時、イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネが、不道徳なことで知られるヘロデ王に殺されたニュースは、弟子たちに強いショックを与えました。ですから、イエス様も王様に睨まれる可能性がありました。
しかしイエス様はご自分を殺すのはヘロデ王ではなくユダヤ教のトップたちである、と言い切られたのです。弟子たちはその人々とイエス様がたびたび議論をして負け、悔しそうに帰って行ったのを見てきました。しかしそれが嵩じて殺されるなどとは信じられませんでした。
彼らの読む聖書、つまり今の旧約聖書には、神様を愛することの大切さと並んで、同じ神の民と呼ばれるユダヤの人々同士助け合うことの大切さが記されていました。しかしやがて教えは次々と細分化され、イエス様の時代には日常の些細なことまで律法学者が睨みを効かせるようになっていました。
そんな彼らは、神の子であるイエス様に律法の根底に神様の愛があることを改めて知らされたのです。それをきっかけに、悔い改めに導かれた人もいたでしょうが、逆にプライドを傷つけられて「イエスなど消えてしまえば良いのに」と思うようになっていった人々もいたのです。
しかし弟子たちは、先祖代々ユダヤ教徒として育っていますから、宗教指導者がそんな悪い心を抱くなどと思いもしませんでした。そこで、一番弟子のペトロは「自分が代表してちゃんと言わなければ」という思いでいっぱいになって、たまらずイエス様をわきにお連れし、諌めたのです。
イエス様から認められたばかりのペトロは、どこか傲慢になっていたのかもしれません。ペトロの言う「主よ、とんでもないことです」という言葉は、直訳すると「主よ、あなたにあわれみがあるように」となります。弟子であるペトロが師匠であるイエス様に「神様の憐れみがあるように」と言うことの方が「あってはならない」おかしなことでした。
そのペトロをイエス様は非常に強い言葉でお叱りになります。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」まるでペトロがサタンそのものになってしまったかようです。
ただ、これはペトロをサタンと呼んだというより、お前のすぐそばにサタンがいる。その誘惑に飲み込まれるな、という意味であり、結論から言えば、ペトロが後々教会の土台となるために必要なお叱りだったのです。ペトロが信仰的に成長するためには、何が神様の導きで、何が悪魔の誘惑なのか、その感覚を研ぎ澄ますことが必要だったのです。
例えば、地位のある人たちの発言を「あの人たちは間違わないから」と鵜呑みにするでもなく、「先祖の教えだから」と何でも有難がるのでもなく、しっかりとイエス様のお言葉を聞いてその真意を受け止め、神様に従っていく人になることがペトロに求められていることでした。
イエス様はそれができる信仰者を群れの中心に据え、次の世代のクリスチャンが育つ教会を作ることを考えておられました、その土台となってもらうために、ペトロをお招きになりました。ですから、まずペトロを育てること。それこそがこの時のイエス様の目的だったのです。
叱られたペトロは一旦はひどく落ち込んだことでしょう。しかし次の17章を見ますと、特別な弟子の一人に選ばれてイエス様のお供をしています。このことからも、イエス様がペトロの発言に痛みを覚えつつも決して見放さず、大切に育てようとしたことや、ペトロがその思いに応えようとしたことがわかるのです。
「神のことを思わず、人間のことを思っている。」このイエス様のお言葉は、私たちにも常に突きつけられています。わたしたちがクリスチャンとして何かを判断するとき、決して忘れてはならないなのです。この御言葉によって自分の思いや行動を吟味し、仮に厳しい道であってもそちらを選び取ることができるなら、わたしたちの信仰は必ず成長することができるのです。
3日(土曜日)は土曜学校でした
在園児を含めて17名が猛暑をものともせず
集まってくれました
集中してコースターを仕上げ、みんな満足そうでした
(今回は目地材は使わず石粉粘土で隙間を埋めました)
レギュラー組のお姉さんたちが来ないなあと思ったら
学校関連のクッキング教室に
参加したのだとか(お菓子だったようです)
我が飯田教会にもお菓子の名手がいるのですが
現在は残念ながら自由に使える台所がなく
お菓子教室はできない状態です
以前は幼稚園の給食室と共同で台所を使っていたのですが
今はそういったことは許されなくなりました(><)
今計画中の新会堂が完成すれば
自分達のキッチンで心置きなくお菓子教室ができます!
その日が待ち遠しいです
0 件のコメント:
コメントを投稿