2020年6月1日月曜日

共に信じ、共に祈る(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨祭(2020年5月31日)
ヨハネによる福音書 7:37-39

 聖霊降臨祭、おめでとうございます。今の状況では祝日らしいこともできませんが、共に集えることに感謝いたします。

 聖書の舞台・イスラエルの首都エルサレムは堅固な城壁に囲まれた政治と宗教の中心でした。町の中心にはユダヤ民族の誇り、エルサレム神殿がありました。
 そして乾燥地帯であるにも関わらず、城壁内には豊かな水もありました。ギホンの泉と呼ばれる水源が地下トンネルを通って城壁内のシロアムの池に注がれていました。町に新鮮な水があることは存続と繁栄に直結しますから、ギホンの泉の水からシロアムの池に繋がる水は「いのちの水」とも言われていたようです。

 本日の聖書箇所は「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」という書き出しです。これはユダヤ教の三大祭りの一つ仮庵の祭りです。祭りは数日にわたって催され、その期間中毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、祭壇に注ぐ行事がありました。
 祭の最終日、イエス様は立ちあがって水を運ぶ行列に向かって大声で語られました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
 イエス様は、豊かな水を神殿に運んで行こうとしている人々を前にして、「渇いている人よ」と呼びかけられたのです。

 当時のイスラエルはローマの属国で、政治家や宗教家は国を維持していくためにローマの顔色を伺い同胞を押さえつけました。ですから、エルサレムの繁栄は非常に危ういバランスの上に成り立っていることを、民衆は知っていました。祭りで豪華な捧げものが捧げられても、それは偽りの満足感、一時的な豊かさ、かりそめの幸福感しか与えてはくれません。それでも民衆は、神殿さえ大切にしていれば神様の恵みと繁栄は続くと信じ、それが信仰なのだと考えていました。
 エルサレムにいくら豊かな水があっても、人々は本質的なところで渇いていたのです。ただ、多くの人々は自分自身の渇望に気づくことなく、美しい神殿と伝統ある儀式にすがって生きていたのです。
 しかし、エルサレム神殿はイエス様が天に帰られた後、40年も経たないうちにローマに攻められ、跡形もなく壊されます。イエス様はそうなることをご存知でした。だからこそ、今、心が渇いている者を探し求められたのです。形だけの方法では渇きを癒せない人々を探し、ご自分に従えうよう呼びかけられたのです。

 この時ヨハネは「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、人々はイエス様の言葉がで理解できなかったと記します。「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」とは、「イエス様がまだ十字架で死なれておらず、復活もまだ先のことであった」という意味です。
 そしてここが肝心なのですが、「この時まだ聖霊なる神が降っておられなかったので、人々はイエス様のお言葉の本質を理解する力がなかった」と理解することができます。つまり、イエス様が十字架で死なれ、蘇り、天に帰られることで、初めて聖霊なる神が私たちの元に来てくださり、イエス様のお言葉の真意を理解する力を得ることができる、という意味がなのです。

 ヨハネはさりげない書き方をしていますが、聖霊なる神が来られて初めて、イエス様の語られた真理を理解することができる、と記し、私たちに聖霊なる神のお働きの大切さを教えているのです。
 聖霊なる神が、私たちのところに来られた日が聖霊降臨祭、ペンテコステです。私たちはまさに、聖霊を受け、イエス様のお言葉を理解することができるようになった者たちなのです。そしてその力が与えられた今日という日を祝っています。

 私たちの肉体は適切に水分を取らなければ熱中症にもなります。しかし生きていくなかで、共に信じ、共に祈る仲間が教会を通して与えられました。イエス様を信じる私たちには豊かな霊が注がれ、その心は2度と飢え渇くことなく、満たされる群れの中にいるのです。




↑メンバーに郵送したハガキ

コロナの感染状況を見ながら
月一回の土曜学校を再開していく予定です
ペンテコステも過ぎましたが
「たまご探し」を楽しみにしていた子どもたちの気持ちを考え
またイースターの大切さを知ってもらうために
あえて「2ヶ月遅れのイースター」という企画で行います
今度こそ「お流れ」にならないよう
スタッフ一同祈りを捧げています


園内と外掲示板に掲示したポスター
ハガキと微妙に違います笑


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