聖霊降臨後第9主日礼拝(緑) (2019年8月11日)
コヘレト2:18-26 コロサイ 3:5-17 ルカ12:13-21
本日の福音書では、ある人がイエス様に「私に遺産を分けてくれるよう兄弟に言ってください」と願い出ます。イスラエルの文化を知らなければ筋違いのように言える話ですが、この国では、宗教家が律法に基づいて判断するのが普通でした。彼はイエス様を立派な宗教家の一人と見込んで頼んできたようです。実際には筋違いでもなんでもなく、イエス様が周囲からどれほど尊敬を受けていたかを示す出来事でもあったわけです。
しかしイエス様はこの男性から持ちかけられた話をあっさりと退けられます。ご自分は、この世において裁判官や調停人をするために来られたのではない、と言われたのです。イエス様は自分に話を持ちかけた男性が「金さえ手に入れば、その他のことはどうでも良い」と考えるような、危険な精神状態にあることを見抜いておられたのです。この男性が、少しでも多く財産を獲得できなければ生きていくことができない、と考えている様を見て取られたのでしょう。
イエス様は財産にまつわる一つのたとえ話をされました。『畑が大豊作で、今持っている倉では入りきらないと知った金持ちが、喜んで古い倉を壊し、大きな新しい倉を建てて、これで残りの人生安泰だ、と安堵した夜、ぽっくり死んでしまった』というたとえ話です。
蔵を建てることが悪いのではありません。ただこの金持ちは、飢饉への備えというより、この蓄えさえあれば、もはや神様の導きも教えも必要ない、と考えるようになっているのです。そのような精神状態をイエス様は「愚か」と言われるのです。幸福の絶頂にある時、彼は死を迎えます。
イエス様は、この世の富は人が幸せに生きていくことに直接関係はない、と言われます。自分の安心のために富を蓄えても、神様に背を向けて生きていくなら、その人生は虚しくあっけないものだ、と言われるのです。
イエス様は、人が心の底から恐れなく生きるには、何より神様の愛が必要だ、とお教えになりました。ただし、22節には「イエスは弟子たちに言われた」と書き始められています。ここからは、「なんとなくええ話を聞きたい」という人にではなく、イエス様に従って生きようと決心した人々に語りかけられておられるのです。言い換えるならば、神様と正しい関係を築きたいと願っている私たちに向かって、積極的な心構えと秘訣について語っておられるわけです。
イエス様は、「悩んでも仕方のないことを思い悩むな」と言われます。あなた方の父は、何があなたに必要なのかすべてわかっていらっしゃるのだから、先回りして思い悩んだり恐れたりしないで神様を信頼しなさい、と言われるのです。
「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とイエス様は宣言されます。とても有名な御言葉ですが、この御言葉をすんなり信じられたら苦労はしない、と心の中でつぶやく方もたくさんおられるでしょう。ただ、そんな風に開き直ってしまうのはイエス様の弟子にふさわしい態度ではないのです。
ルカ福音書18章には、有名な「金持ちの青年」のお話があります。彼は永遠の命を受け継ぎたくてその方法をイエス様に尋ねます。するとイエス様は、持っている全てを売り払い私に従いなさい」と言われます。彼は財産を放棄することができず、悲しみながらイエス様の元を立ち去るのです。
私たちが、思い煩わない生活を求めながらも、イエス様の言葉に従いきれないなら、この青年と同じだ、ということになります。一度イエス様についていく、と決めたなら、神様を信じ、次々襲いかかってくる不安を振り払いながら歩んでいくのです。もちろん簡単なことではありません。簡単でないところを、あえて歩むところに信仰を持って生きることの意味があるのです。
信仰を持たない人から見れば、呑気な楽天家のように見えるかもしれません。しかし歯を食いしばってでも呑気な楽天家であり続ける努力を続けるとき、「神に栄光を帰す」という出来事が、この地上に起こるのです。
イエス様と共に生きる人々は、なんと脳天気なのだろう、と呆れられることもあるかも知れませんが、それこそが、私たちに与えられた恵みであり、財産なのです。
不確かで不安に満ちた今の世の中であるからこそ、私たちは神様に栄光を帰しながら、一人一人の生き方に信仰と誇りを覚えて歩んで参りましょう。
大好きな五平餅でほっと一息
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