2019年5月19日日曜日

キリストの新しい愛の掟(お話の抜粋)

復活後第四主日礼拝(白) (2019年5月19日)
使徒言行録13:44-52 黙示録 21:1-5 ヨハネ13:31-35

 本日は、最後の晩餐と呼ばれる食事会の席上でイエス様が語られた御言葉から学びます。ここには「新しい掟」と小見出しがつけられています。
 この「新しい掟」とはイエス様が弟子たちに与えられた「互いに愛し合いなさい」というルールを意味しています。古い掟とは、旧約聖書に記された十戒をはじめとする律法を、とにかく守る、という信仰上の約束を指し、律法を守っていれば神様との正しい関係が保たれる、という考え方です。しかしイエス様は、大切なものが欠けたままで律法を守っても神様は決してお喜びにはらない、と人々に教えられます。
 この日イエス様は、人々の信仰に欠けている大切なものとは「愛である」と弟子たちに教えられたのです。この「愛」という言葉には「アガペー」というギリシヤ語が使われています。日本語では「無償の愛」とも訳され、「見返りを求めないで、何度裏切られてもひたすら与える愛」と理解されています。

 この時、弟子たちはイエス様が間も無く十字架にかかるなどとは誰も思ってもいません。ですからイエス様が『私が行く所にあなた方は来ることができない』と語られても、それが何を意味しているのかわからず、「互いに愛し合いなさい」という大切なメッセージより、イエス様がどこに行くのかと、そちらに気を取られてしまったのです。
 実際ペトロは「主よ、なぜついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と納得がいかない、と言わんばかりの発言をしています。しかし逮捕されたイエス様の様子を伺おうとして大祭司の屋敷に入ったペトロは、すっかり形勢が不利になっていることを知ります。心に怯えが生まれ始めた時、人々に見咎められた彼は「イエスなんか知らない」と3度も否定してしまうのです。
 「鶏が鳴くまでに3度私を知らないと言うだろう」というイエス様の予告が現実になった時、ペトロは自分がイエス様に対して行った裏切りに気づき、号泣したのでしょう。「イエス様のためなら死ねる」つまり「自分くらいイエス様を愛している人間はいない」という自信は、単なる思い上がりに過ぎなかったと気付かされたのです。
 一方、イエス様はペトロがそうなることをご存知で、全て受け入れておられました。ペトロ自身はそれほどの愛で愛されていることに、気づいていません。
 こうした出来事の後、ヨハネ福音書21章の、復活されたイエス様がガリラヤ湖のほとりでペトロに向かって、自分を愛するのか、と尋ねられる場面はこの福音書のクライマックスとも言えます。
 ペトロはイエス様の問いかけに対して、「主よ、あなたはご存知です」と答えます。以前の彼なら「はい、もちろんです」と元気よく答えたでしょう。しかし今のペトロは違います。ペトロは、自分の裏切り行為を恥じていたからです。イエス様を否定し、挙句の果てには呪いの言葉さえも言ってしまった自分は、アガペーの愛どころか、愛の心などひとかけらもないことを思い知らされたからです。

 イエス様は3回のうち初めの2回、「あなたはアガペーの愛で私を愛するか」「自己犠牲の愛」「無償の愛」でご自分を愛するか、と聞いておられるのです。しかしそれに対してペトロが使っている「愛」という言葉は、フィリア、友として愛するという言葉でした。美しい言葉ですが、自分を犠牲にする、というニュアンスは「アガペー」より薄まっているかもしれません。イエス様を裏切った自覚のあるペトロにとって、どうしても「アガペー」という言葉は使えなかったのでしょう。
 しかしイエス様はそれはレベルの低い愛だ、ダメだ、とはおっしゃいません。むしろ3度目の問いかけではペトロの使った、「フィリア」という言葉を用いておられます。言うなれば3度目の問いかけは「あなたは私を大切な友人だと思っていますか」と訳せるでしょう。
 そしてペトロが戸惑いながら「あなたは何もかもご存知です」と答えると、イエス様は「あなたが今抱いているその友愛の心を持って、私の羊を飼いなさい」、すなわち「教会に集まる人々を兄弟姉妹を思うような愛を持って世話をしなさい」と言われたのです。

 さて、思い出していただきたいのですが、十字架にかかる前、イエス様が弟子たちに与えた新しい掟は「互いに愛し合いなさい」でした。この時イエス様は「無償の愛」「アガペーの愛」で互いに愛し合いなさい、と言われたのです。しかしよみがえられた後は、ペトロに対して「兄弟姉妹」を思いやる愛で互いに愛し合いなさい、と言われているわけです。ちょっと「愛」のランクを落としたのでしょうか。つまり、イエス様は気が変わられたのでしょうか。
 素直に考えれば、イエス様がペトロのために「愛」の欄鵜を落としてくださったと受け止めることも可能でしょう。ただ、ある学者によれば、この2種類の単語は、ニュアンスは違うけれど、同じように高いレベルの愛を示しているそうです。
 神様が人間に与えて下さる愛と、人間が人間を愛する愛。それは異なって当然かもしれません。しかし、何れにしても、自分の出来うる限りの愛を持って、打算を排除して、互いに愛し合いなさい、イエス様はそう私たちに求めておられるのでしょう。

 同じ教会に集っているとはいえ、辿ってきた人生や、価値観、生育歴はそれぞれ異なります。互いに愛しなさいと言われ、これが新しい掟ですよと与えられたとしても、最初の内は話も噛み合わないかもしれません。しかし、この違いは、あえてイエス様がそうなさったのだと受け止めていただきたいと思います。気の合う仲間だけで楽しく過ごす、ただそれだけを求めておられるのではなく、異なる相手を受け入れ合うことで、一人一人の心を大きく広げ、信仰が育っていくことを、イエス様は求めておられるのです。
 新しい掟の中で、不完全であっても互いに愛し合うことはご命令なのだと信じて従ううならば、私たちの教会は完成されていくのです。いつの時もイエス様に愛されていることを忘れず、イエス・キリストに愛される兄弟姉妹として共に歩んで参りましょう。


教会の隣の空き地に、可愛らしい季節の花が咲いています

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