マタイによる福音書第9章35節-第10章15節、2017年7月9日(聖霊降臨際後第5主日礼拝―緑―)、出エジプト記第19章1節-8節a、ローマの信徒への手紙第5章12節-15節、讃美唱100(詩編第100編1節-5節)
説教「宣教の開始」(マタイ福音書第9章35節~第10章15節)
今日の福音は、弟子たちの派遣というテーマであります。主イエスは、ガリラヤの町々、村々を一つ一つ巡り歩き、彼らの諸会堂で教えつつ、み国の福音を告げ知らせつつ、また、悪霊を追い払いながら、あらゆる病、患いを癒しながら、歩き回られます。
私たちは、だれもが、それぞれ、町や村に住んでおります。その一軒一軒を、主イエスは、実は今も、この良き知らせを告げながら、訪ねて、その一個一個の家庭の戸を叩いて、外で待っておられます。私どもが、その戸を開きさえすれば、主イエスはこの良き訪れを携えて、私どもの家に入ってくださるのです。
問題は、私どもがその戸を開く心づもりがあるかどうかであります。主イエスは、そのとき、人々の様子を、羊飼いのいない羊どものように、苦しみ悩まされ、落胆しているのをご覧になって、深く憐れまれたと、マタイは記しております。
この時の人々も、現代の私どもの町や村の人々も、確かに当時は過酷な圧政の支配下にあったでしょうけれども、メシアの助けなくても、一見結構楽しく過ごしている人々は少なくなかったでしょうし、現代でもそうかもしれません。
しかし、主イエスはそこに、神なしに生きる人間のまことの悲惨さを、見て取られるのであります。そして、内臓が痛む思いで、私どもをご覧になってくださるお方なのであります。
私どもは、自分を憐れむことはよくあります。しかし、このお方は、御自分のこととして、いや、それ以上のこととして、私ども、他人のこと、人間のことを、悲しみ痛むことがおできになる唯一のお方であります。
そして、弟子たちに向かって、収穫は多いが、働き人が少ない。収穫の主に願って、多くの働き人を送ってくださるように、祈りなさいと言われたのであります。
それから、12弟子たちを呼び寄せ、悪霊を追い払い、あらゆる病や患いを癒す権威をお与えになります。そして、ここに、その12人の名が記されています。「まず、ペトロ」とあります。彼が、いろいろな失敗もしていきますし、完全無欠な弟子とは言えませんが、ともかくも、12人の代表格としてあがられるのです。そして、4人の漁師、兄弟たちに続いて、トマスや徴税人マタイ、あるいは、その敵対者といえる熱心党のシモン、さらに同じく、イスカリオテのユダが、終わりに記され、彼は、主イエスを売り渡した者であるとさえ記されているのです。これは驚くべきことであります。主イエスは、かような人々を、まったく御自分と同じ権威を持つ者として、御国の福音を告げ知らせるために、選び、お遣わしになる。私ども、人類の深い罪が赦され、み国がもたらされるために、これらの12人が一人残らず、替えがたい弟子としてなくてはならなないと、主イエスは、すべてをご存じで、お選びになったと、私は信じます。
さて、このようにして、12弟子たちは、主イエスによって、派遣され、その時、主は彼らにお命じになるのです。異邦人の道へと出ていくな、又、サマリア人の町へと入っていってはならないと。まずは、神の選ばれた民、イスラエルのもとに、福音は告げ知らされなければならないのです。救いは、ユダヤ人から出ると知らされていた聖書の民のもとに、弟子たちは、主イエスの福音を携えて出ていくのです。
そして、主イエスは、言われます。あなた方は出て行って、「天の国は近づいた」と告げ知らせよと。神のご支配の時が迫っている、否、既に始まっていると宣言するのです。そして、主は、あなた方は何も持って行かないようにと言われました。腰帯に銭も、それどころか、棒も靴もです。あなた方はただで受けたのだから、ただで与えなさい。賜物として救いを受けたのだから、賜物として、それを与えなさいというのです。
そして、どこか、ある町や村に入っていくときには、どの家が、あるいは、だれがふさわしいか、十分に調べなさいと言われます。そして、誰かの家に入ったら、挨拶しなさい。もし、その家が、あなた方の告げる平和にふさわしければ、平和はその家に入っていくだろう。もし、それにふさわしくなければ、その平和はあなた方に戻って来るだろう。それにふさわしくなかった者の町を出るときには、あなた方の足の埃を振り払いなさいと、主イエスはお命じになります。そして、その町よりは、裁きの日には、ソドム、ゴモラの方が耐えやすいであろうとまで言われるのであります。12弟子たち、そして、私ども、教会が告げる平和は、それほどまでに大きいのであります。この平和をもたらす知らせを携えて、今も私どもは、賜物として、受けたのだから、人々にも、賜物として、宣べ伝えるように出ていくよう、主イエスより、御自分と同じ権威をゆだねられているのであります。そのようなことはできないと私どもは、尻込みするのでありましょうか。それは、牧師や一部の特別な信徒に限られると、今日の主の言葉を、自分には関係ないとするのでしょうか。確かにここに書かれている通りにはできないでありましょう。しかし、私どもができる範囲で、今日のみ言葉を実践していく。その意味で、一人一人が、小さなキリストになるようにと、ここで、私どもは召されているのです。アーメン。
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