2016年12月1日木曜日

「聖書と終末論」[作家の方法](小川国夫著)

―最近読んだ本からー
「聖書と終末論」[作家の方法](小川国夫著)
    岩波書店1987730日 第1刷発行1100円)
 一人の文学者が聖書を自分の眼で読み、説き明かししている。私は、牧師として、どうしても注解書に頼りながら、聖書を、特に新約聖書は原文に立ち返りながら読むことで、木を見て森を見ずになりがちである。しかし、小川国夫は聖書の生き方、終末論という大きな羅針盤をもとに、聖書の深いところに洞察を深めていく。この世界の終わりに、神が裁判をしてくださり、すべてが明らかにされる。たとえば、あのゴッホの絵を見て、そこに聖書の終末観が明らかに見て取れるという。あるいは、同じ文学者の中、たとえば、ドストエフスキーの作品に聖書の終末論が貫かれていると見ている。終末というテーマが、旧約聖書、そして、新約聖書を読む鍵であると洞察している。そして、たとえば、預言者エレミヤの中に、そして、イエス・キリストの中に、また、使徒パウロの信仰の大逆転を経ての宣教の中に、あるいは、ヨハネの黙示録において、終末、神が終わりのときに裁判をして、この世界の白黒をつけてくれるとの堅い約束・預言への信頼を見て取っている。小川国夫のような聖書の骨髄を見抜く眼を養いたいものである。

「風浪・蛙昇天」(木下順二戯曲選Ⅰ 木下順二作)
        (岩波文庫200575日第4刷発行)
「風浪」 木下順二といえば、高校2年のとき、現代国語で習った「夕鶴」を思い出す。「風浪」は、木下順二の処女作といってよい。故郷熊本弁でこの戯曲は描かれている。私も、熊本市に1年住み、水俣市に4年住んだので、明治初年のころの題材になっているとはいうものの、懐かしく、一気に読ませられた。木下順二については、よく知らないが、熊本バンドを背景にした時代物である。キリスト教に対しては、晩年であろうか、ある距離を置いていたとも聞いているが、明治の時代にあって、青年たちが日本の国を新たに背負って立とうとするなかでの苦悶が記されている。現代の若者たちは、この戯曲をどのような思いで読むことだろうか。それにしても、良く熊本弁が息遣いまでぴったりと表現されている。言葉を紡ぎ出すとよく言われるが、この作品のようなものを、指して言うのだろう。

「蛙昇天」蛙たちを、主人公にして、1950年代頃の冷戦体制を背景として、ユーモラスに描かれた、今度は、現代の歯切れにいい東京弁で描かれた痛烈な、時代批評というべき戯曲である。こんなに戯曲が読みやすく、面白いものだとは知らなかった。木下順二は、今、2016年の日本に対してなら、どのような戯曲を書くことだろうか。一回の牧師にとっても、考えさせられる作家である。今の時代に何をこの作品は訴えかけているのだろう。

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